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私の従軍記 飯塚 定次

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前の投稿 - 次の投稿 | 親投稿 - 子投稿なし | 投稿日時 2015/4/9 6:36
編集者  長老 居住地: メロウ倶楽部  投稿数: 4298

 八月十五日午前、司令部前の広場に二百名近い全員整列して戦争終結の勅令を伝達されました。司令部に在籍する者は情報をキャッチしていますので来たるべき日が遂に来た、そんな思いでくやしさをかみしめました。九月十五日英印軍司令部から駆逐艦ナルバタ号(と記憶していますが違っていたかもわかりません)が来て終戦手続が決定されたのです。
 身辺整理が八月十五日以降ずっと続いておりましたが兵器の処理とかが真先に取上げられた事は当然ですが港のすぐ前にロス島という小さな島がありまして英印軍の司令所として常駐いたしました英海軍の中尉が責任者として指揮をとり、副官に若い少尉がついていましてこの少尉が人なつっこい人でよくお話もいたしました。

 十一月二日朝、高級副官から呼出されて「本日午前中完全装備、食料七日分携行、単独行動となると心得て司令部前へ集合せよ」と命令を受け、これが戦犯Bキャンプへ収容された第一日でした。行先不詳。私が選んで供にスパイ狩作戦に行った十名が行動を供にしました。みんなに対して終戦したというのに行先も目的も理由も不詳の旅とは最悪の条件だナと自覚。「最後の最後かも判らん、各人最後迄自分を大切にしてくれ、元気でナ。」と決別のわかれを告げたが二、三時間後に判った事は、ロス島のBキャンプへ皆収容された事。とりあえず話合える生活が続いた事は一つの安心をもたらした事だったが、英軍の監視兵が着剣した小銃で宿舎を囲んでいて言葉が通じない事と素手の我々がこわかった事か、とても緊張して距離をとって警備していた事。呼び出されるとキャンプの中央の処にあるテーブルの前で剣のついた銃を胸に当てられ両手を頭の上にのせて尋問させられた屈辱はくやしかった。戦争に勝った彼等の倣慢さも頭に来た。彼等からみて気に喰わん時は銃を空に向かって撃っていた。みんな覚悟して生活をしていたから正々堂々として武人らしい立派なふるまいだった。
前の投稿 - 次の投稿 | 親投稿 - 子投稿なし | 投稿日時 2015/4/12 21:15
編集者  長老 居住地: メロウ倶楽部  投稿数: 4298

 間もなく輸送船で目の前をシンガポール沖の収容所へ集合する為に一万八千名が通り過ぎて行くのがみられる様になった。良かったナ、思ったより早くみんな帰れそうだナ、と一つの安堵が出来た。我が三十五旅団は北レンバン島へ、スマトラ第二師団は南レンバン島へ集合するという事が判った。変った事もなく一ケ月半が経って、十二月中旬田村部隊の下士官兵と我が司令部自動車隊の私を除く十名が原隊へ呼び戻された。私はこの時、空が一変して明るい太陽が満ち満ちているのを実感しました。これで心残りなく死んで行ける良かったと一度に神仏に感謝いたしました。こんな清々しさは久しぶりだと思った。

 数日して輸送船を見送った。クリスマスに下さったプレゼントだった。Bキャンプは話相手は少なくなって来た。一月十二日朝呼び出されてこれから装備して中央へ出よといわれ、私と林中尉が呼び出された。林中尉は情報関係だ。二人が出たら英軍少尉が付添って日本の衛兵司令所へ行き私達二人は自軍司令部の出迎えた車で司令部へ戻った。この時日本軍へ引き渡されて、見た乾季の山野が一度にパツーと明るく輝いて曇っている空迄明るくなった事を今も眼に焼きついている。司令部へ戻り、田辺参謀の処で復帰報告をした処大変よろこんで下さり、近日北レンバンへ行く船が出るので明日積込みをするからと説明があり、食糧がなくて困っている状態と聞き今度も我々を食糧にするつもりかと思った。取りあえず船に乗せられるだけの食糧と車がないというのでサイドカー一日とトラック(米を満載して)一台を積込んだ処で英軍の司令官が臨検し、トラックは下ろせという事で船に積替えようとしたら時間がない直ぐせよといわれ悔しかったが米を積んだトラックをそのまま下ろして出航した。

 北レンバンに到着したら港らしいものもなし、道路も歩行路という処、トラックを持って来ても走る道がなかった。サイドカーはどうやら行けそうという事。この島は粘土質で水もない、草も生えない、ビンロージュだけが海岸から岡へかけてあるだけ。司令部に到着したら仮小屋。私達の居室なんて気の利いたものはない。海岸に生えていたカヤを刈って来て頭の方半身が入る岡の斜面に造ったとにかく雨露を凌ぐだけの野営に入った。到着して甲副官に復帰の報告をした処「早速だが、みる通り草も生えない荒地で陸海軍併せて二万人の自活生活が始まった処だ。飯塚軍曹は早速ご苦労だが栗原中尉(記憶が不確実)と二人で全軍自活の開拓計画をたて、既に各部隊に命令が出ているから具体的な指示を出してほしい。」 と新任務が下された。当時司令部百八十名ほどで一食の米が一升(一、八リットル)透明なお湯の様で米粒一つなかった。これは英印軍の作戦で我々を餓死させるつもりだろうと思って居たが経理部の某責任者の言質で判った事は、何としても生命の維持策として半分を山に秘密の壕を掘り日々造り出した米を厳重な管理で確保していることが判ったが、もしこの事実が聯合軍に知られたら、担当者は即刻処刑されるだろうという事だった。
前の投稿 - 次の投稿 | 親投稿 - 子投稿なし | 投稿日時 2015/4/14 6:16
編集者  長老 居住地: メロウ倶楽部  投稿数: 4298

 さて、私と栗原中尉は各部隊の経理部と本部の担当者を集めて現況把握に入った処、既に近くのなだらかな山野を開き、開墾を始めていたのを基本計画の基軸とし草の生えない酸性土壌を中性土壌に改良する為、切り開いた土地一坪当りを一山として深さ三十~四十センチに掘り起し下部にシダ類を敷き、その上に中心に煙突を仕組み上を雑木を切りさき燃え易い土釜にして、下から火をつけて焼土作戦を開始した。人手があるが食料不足の作業できびしかったが思ったより順調に進み、シンガポールの二十五軍本部より甘藷の苗、タピオカの苗等を引取り開拓の出来た処から植付けを始めたのであります。私はこれらの収穫期迄残りませんでしたので戴くことは出来ませんでしたが一面甘藷畑になった開墾地をみて感無量でした。

 肥沃な島が沢山ある中でわざわざ草も生えない無人島を選んで我々を追い込む聯合軍に人間としての尊厳を無視した聯合軍の意図に許せんとする強い反感を禁じ得ませんでした。

 地図に載らない二百余の島々は今どうなっているのだろと気になります。この島々を結ぶ水路にワニが沢山います。この時分に二名の方がワニの攻撃を受けて亡くなられました。

 何回目かの帰還船が次々出航してゆきました。その間四月二十九日の天長節の祝日を記念して演芸会を舞台を作って行いました。その頃は日常生活も兵舎が出来て人並の環境になっていまして、食糧も聯合軍の野戦食オーストラリヤレーションが時折配給されたりし、以前の様に長期のための特別備蓄なども考えずに平常になっていました。

 五月に入りまして帰国の番に組入れられまして下旬だったと記憶しておりますが、乗船、南紀の田辺港に六月八日に入港いたしました。東京都麻布の村松達二郎君と司令部在籍者の中で仲の良い友達として生活していました。彼は私より三年年長で東京商大卒業、繊維の大手メーカー「郡是(グンゼ)」のニーヨーク支店に勤務中召集され近歩三へ入隊。御自宅は東京麻布区林町でしたので無論大空襲で焼失しているだろうという事で二人で久しぶりで京都へ行って和食で日本を味わおうという事になり、受取った三百円、二人で計六百円あれば良かろうと昔和菓子一個一銭か二銭だった頃の頭で考えて話していた。ところが当ってびっくりした事は饅頭が一個十五円、ザツと三千倍となっている。とても六百円で豪遊等とんでもないという事で東京の御宅へ電話したら通じて御住居は大丈夫で残っていらっしゃる。分散した家財の内、横浜倉庫分は全焼、群馬分散の方は安全、御自宅の庭を掘って格納された分は防湿不充分で傷んだものが多いという事が判明。私の田舎の家へひとまず落ち付こうという計画も必要なくなりまず一安心となり、彼は東京実家へ私は静岡へ直行となった。
前の投稿 - 次の投稿 | 親投稿 - 子投稿なし | 投稿日時 2015/4/15 6:41
編集者  長老 居住地: メロウ倶楽部  投稿数: 4298

 余談ですがその後彼は神戸の系列の会社の社長になられたが二十年程前に他界された。
 一度麻布の御宅を訪ねた事があり、今その頃をなつかしく思い出している。昔司令部にいた数百人の内、今、賀状を書いている人は十名に満たない。皆お話出来ない処へ行かれてしまった。

 私のBキャンプでの責任を背負って行かれた司令官も田沢中佐(参謀)も私達が帰国前にシンガポールのチャンギー刑務所で処刑せられて果てられました。当時チャンギーで教戒師を勤めていらっしゃった池上本門寺の門跡が関係者の拠金を基に大東亜戦争に依りチヤンギー刑務所で処刑された方々百六十数名の御霊を祀る慰霊碑を昭和二十八年、本門寺の御寺の境内に建立し、毎年四月第二日曜日に慰霊祭を行って来ました。陸海空、及び関係者の霊を祀る主祭者が高齢になり合同慰霊癖は平成二十五年を以て一応止め爾後(じご)は各縁者に依って行う事にした。情況の許す限り参詣する事に私の心の中では決めております。

 最後に申上げたい願いがあります。これ迄申し上げて来ました様に世界中の人間が己の利益だけを考えて行動したら必ず衝突が生じます。今回の世界大戦も日本の国力の急激な進展を恐れた国々が協議をして日本へ油を売らないことを協議し、同盟を結び、これを強行し、軍備も陸海軍の戦力を限定して来た事に端を発している事です。日本も一緒になって協力体制を作る立場に入っていれば、当然戦争はしていません。それでもきっと難題を出して来る事もあるでしょう。それを解決する道は政治力です。この政治力を高め相手に納得せしめる理論話法を磨き上げて行く事を政治の衝に当たる人は身につけなくてはなりません。自分だけ満足な豊かな生活を相手の犠牲の上で押し通そうとしても万人が反対すれば成立しません。共存共栄の道を求め、その道を造り出した人には万人が感謝とその人の幸福を認めましょう。

 東日本大震災で時の総理大臣が原子炉の冷却装置が停電で停止したらあの大事故を引き起すことを知らなかった。アメリカから援助の電話を戴いたのにお断りした。この一人の政治力の無知。あらゆる面で大惨事を引き起したとなります。その他の原発の設備はどこも事故を起していないでしょう。皆さんが冷静なお立場で実情を確認して下さい。今の総理は理論と現状が安全ならばと断りの上で膨大な原油の輸入で国の財政を苦しめている事の如何に無駄かという事がお判りになるでしょう。又大事故を起す事を承知で仕出かす様な心配は必要ないのではないでしょう。二代に亘って外交と事故でこんなに苦しい思いをさせた張本人はのうのうと涼しい顔でテレビに出ています。私達の政治感覚をもっと磨いて行かないと日本の真の安心は育たないのではないでしょうか。

 英智を結集して原爆を排し新しい熱源を開発すること。

後記
 今から八十余年以前の事件を問われるままに朧な記憶を拾い集めて書きましたもので 勘違いもあると思いますが九十五才の老兵の夢と御寛恕下さい。子々孫々に絶対に戦争をさせてはならないという私の情念をお汲取り戴ければ本懐です。
      
平成二十五年七月

 ー完ー
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