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浜で育った松の木 『限秒』より

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前の投稿 - 次の投稿 | 親投稿 - | 投稿日時 2005/8/19 22:56
夏子  半人前   投稿数: 22
 大正一〇《=1921》年三月、師範卒業と同時に兵役服務《へいえきふくむ=国民の義務として現役兵となること》となる。生れ本籍が西伯郡内であると、当時は松江歩兵第六十三連隊(夏子注:原文では聯隊、以下同様)に入隊なれど、学校の関係上徴兵検査《ちょうへいけんさ=兵役に服するための身上・身体検査》を在学中鳥取で受検(第一乙種《甲種・第一乙種・第二乙種・丙種の別がある》合格)のため、鳥取歩兵第四十連隊に入隊することとなった。そして従来師範卒は六週間現役であったが、大正十年度から一年現役となったので、最初の一年現役兵だ。

 愈々《いよいよ》三月三十一日、大篠津駅出発に際しては“祝入営松岡忠男君”という幟(夏子注:ノボリ)数本立て、村民大勢の人々を始め小学校全児童の楽隊のもとに送られ出発した。この風景は日清《=1894年日本と清国(中国)との戦争》日露戦争《=1904年日本とロシア(ソビエト)との戦争》以来、出征兵士の歓送迎には続けられていたのである。御国のために頑張る気持ちは、いやが上にも若人には漲《みなぎ》っていたようだ。

 三十一日は鳥取吉方温泉泊り、翌四月一日鳥取歩兵第四十連隊第六中隊に入隊、私服は総て付添人であった従兄《じゅうけい=いとこ》の足立重市に渡して、二等兵の軍服に着替え、軍人としての誓文《せいもん=誓いの文言》を朗読して帝国軍人としての活動が始まった。

          誓 文
  今般御読聞相成候読法条々堅ク相守リ誓テ違背仕間敷候事右宣誓如件《こんぱん およみきかせあいなりそうろう とくほうのじょうじょう かたくあいまもり ちかっていはいつかまつるまじくそうろうこと みぎせんせい くだんのごとし》
     大正十年四月一日

  参考
     讀法(夏子注:トクホウ)

   兵隊ハ皇威《こうい=天皇の威光》ヲ発揚し国家ヲ保護スル為メニ設ケ置カルルモノナレハ此兵員ニ加ル者ハ堅ク左ノ条件ヲ守リ違背《いはい》スベカラズ

   第一条 誠心ヲ本トシ忠節ヲ盡《つく》シ不信不忠ノ所為《しょい》アルベカラザル事
   第二条 長上ニ・・・・・(夏子、以下讀法を省略)

 二等兵新兵二十人(鳥師同期生)の全員は第六中隊第六班にまとめられ、班指導係に中川良胤伍長勤務上等兵、前田上等兵が当った。(中略)

 入隊第一夜の想い出
 入隊しても班全員が同期生だけでの編成であったから、師範寄宿舎を移動したようなもので和気あいあい、食事も入営祝すというので赤豆ご飯、一同思いもない大歓待、すっかり気分よく鼻歌でも一つ位出すものもあった。軍隊生活はこんなものかと喜んだ。

いよいよ第一就寝の時間前指導係上等兵より廊下に集まれの号令が降《くだ》る。不動の姿勢のまま聞けというわけで大きな声“諸君等の魂は腐っている学校とは違う、帝国の軍人だ。只今までのぶざまはなんだ”とばかり一同暫く立たされた。今にぶたれるかと思って居ったがそれはなかった。一同各々《おのおの》歩兵銃にお詫《わ》び敬礼して漸く寝につくことが出来た第一夜であった。

 第二日目からは起床ラッパで起き、室内の整頓、清掃、朝食すませ、休む暇なく舎外に集合、服装検査、敬礼、各個教練、学科(勅諭《ちょくゆ=軍人勅諭》)等暫くこの日課は続いた。郷里への便り書く暇なく、時間あれば歩兵銃の手入れ多忙な新兵さん生活である。外では敬礼、内では整頓、座れば居眠り、多忙な毎日であった。

(中略)

六月二十七日第一期検閲《けんえつ》無事通過、(学校入学試験以上)8月一日に一等兵に進級する。幾度となく肩章を眺め星二つは嬉しかった。星一つの新兵は連隊中何人にも失礼なく一々敬礼をして動作に移るのであるが、一等兵ともなれば幾人か先に敬礼してくれる立場となる。子供のようではあるが嬉しかった。又それだけ自重することでもある。行きたくない便所でも敬礼を受ける嬉しさで無理に行きたくなる一等兵さんであった。

教育課程は一年志願兵とほぼ同様であったが、除隊後は国民教育にたずさわるというので、精神教育に重点がおかれ、軍隊生活を積極的に経験するよう炊事・縫工・医務・諸般の施設等の見学を始め軍隊生活の理解を深めるため大隊長(横山少佐)連隊長(中頭大佐)と共に会食して教育談をなすなど配慮があった。時に徹夜の衛兵《えいへい=番兵》勤務は印象が深い。

(中略)

 十月一日は上等兵に進級星三つとなる。星三つの兵隊は成績優秀でなければならない。一年現役兵の全員進級は有難いことであった。早速日曜外出には上等兵進級の記念写真撮影をし、郷里や親友にも送ったのである。

(中略)

 一月一日には歩兵伍長《ほへいごちょう》(下士官)に全員進級、班長見習勤務となる。軍隊もいよいよ終末段階で隊長より盛んに宿題が出される。一般兵士に対する講話原稿(例えば靖国神社祭について)一ヶ年に次々来る祝祭日、講演原稿提出には、日曜外出は止むなく中止して、宿題整理に励まねばならないことしばしばあった。

 三月末除隊近くなれば一ヶ年の軍隊生活はなつかしくもなり、名残りつきぬ愛執《あいしゅう=愛着》を覚えだした。それは同期生二十人は同じ苦難を味わったことで、師範二部の一年間はそこ迄届かなかったのだ。

それに角度を変えた人間性の一年、共に同じ水を呑《の》んで同じ汗を流した青春譜、それは教官山口少尉の架け橋指導の賜《たまもの》と感じとることが出来る。少尉は佐賀県出身独身で、若くて陸大《陸軍大学》を志望し勉学家で、そして教育愛に燃えても居った。(中略)軍隊は要領と何とやらというが、山口少尉は師弟同業の教育の場を作った人であった。一年現役兵の目的は十分達したようであった。

 三十一日歩兵軍曹に進級と同時国民兵役《=教育を受けて除隊した兵が属する》に編入せられ除隊満期。翌一日には国民教育勤務となり訓導《くんどう=小学校の正規教員》として教育界に入る。

前の投稿 - 次の投稿 | 親投稿 - 子投稿なし | 投稿日時 2005/8/25 10:10
夏子  半人前   投稿数: 22
 鳥取歩兵第四十連隊に一年現役兵として入隊も大正十一年三月三十一日満期除隊となり、陸軍歩兵軍曹に昇任となって多くの村民達に迎えられて郷里に帰った。

 翌四月一日より教育界にその第一歩を踏み出した。入隊中は愛労小学校訓導(月俸《げっぽう=月給》四十円)として名簿上の配置であったので、愈々《いよいよ》実務としては中浜小学校訓導(月俸五十円)が初めての赴任となる。校長は鳥取師範附属小学校訓導より抜擢《ばってき=多くの中から引き抜くこと》された足立正一校長、学級数十四学級、当時は大規模校であった。

同日赴任訓導は黒川顕憲(後に米子工業高等学校長)、長曽初子、拙者《せっしゃ=自分》の三名、当時は近隣の学校には講堂(体育館)の設備がないのに、新築の大講堂で新任挨拶は如何《いか》にも教師となった感を深く印象づけた。

(中略)

 この大正時代は教授方法の一大変革期でもあって、コペルニクス的展廻《コペルニクスてきてんかい=天動説から地動説に変わった事に例えて、考え方が正反対に変わること》という当時の教育界の流行語が示すように、教授法あって以来の一大転換であった。即《すなわ》ち従来の教師本位の教授を児童本位の授業が尊重され、教育は教師のために行われるものでなく、児童のために行われるものであり、児童が学ぶに都合のよい形に改められねばならないと主張された。

自由主義的な新教育運動は当時の私立小学校を中心に展開されたが、官立《=国立》小学校では東京・広島・奈良の各高師《=旧制高等師範学校》附属小学校等が進んで新学習法の研究と実践の推進力となり教育界に一旋風を巻き起こした。

 大正十二年十二月奈良女高師附属小の新学習法研究発表講習会(一週間)に中浜小学校より派遣されこの講習に参加した。当西伯郡教育界よりも崎田茂信・金畑誠一等他六人参加し、地方教育振興のため気を吐いたのである。

(中略)

奈良女高師附属小の児童中心の新教育は西日本の教育名所として全国各地より参観人は押すな押すなの盛況でアメリカ流のプラグマチズムの思潮《しちょう=思想の傾向》を背景にした能率学習ともいうべきものであった。

この波紋は私達の身辺にも迫り、分団《=グループ》学習のため問題提起用の小黒板をバフン紙《=わらを材料とした粗末な厚紙》を墨で塗って作り、教室一杯につって問題を発表提示し、机の配列を討議型にして討議研究、尚《なお》文集を児童が編集して発行、図画展を学級独自で開催、運動競技の指導あれやこれや多忙の新任教師であった。
前の投稿 - 次の投稿 | 親投稿 - 子投稿なし | 投稿日時 2005/8/29 16:22
夏子  半人前   投稿数: 22
 中浜小学校に勤務すること八ヶ年にて、昭和四年《=1929年》四月郷里の愛労小学校に主席訓導として転任を命ぜられた。(中略)

 時に第一次世界大戦は、大正三年《=1914年》に勃発《ぼっぱつ=突然起こる》し大正七年まで五ヶ年にわたる世界戦史上にもかつてない大戦であった。当の我が国は日英《日本、イギリス》同盟の関係で連合軍に参加したが、地理的関係上直接的な戦禍はなかったものの精神的影響は甚大《じんだい=極めて大きい》であり、結果として世界の五大強国に列し、これに伴って政治思想生活の全面が世界化され、従って思想も直接に影響を受けた時代となった。

明治末期よりの理想主義時代から物質主義的な傾向となり現実主義の方へと動いていった。

 好景気時代より不況時代に移った農村郷土は、村の財政にも影響あり村費負担の教員給与も順調には支払出来ず、止むなく俸給一部を寄付採納《さいのう=取り入れる》して、村財政に援助するという珍現象が起こり、各地に農民運動も起こって経済は一層深刻となった。

後に教員給与は全額国庫負担となり、市町村財政と関係は直接なく給与の安定は確立されたのである。

 学校は七学級小規模な学校であったが、校長は歴代識見高邁《しきけんこうまい=見識が特に優れていること》以下職員組織も常に恵まれ、職員の努力によって教育内容充実の傾向に進んだ。(中略)

 尚作業教育を重視して清掃環境整備を学年別に配当、動植物飼育を児童の発達段階に適応した指導計画をたて、動物飼育については鑑賞的動物、なつかしみのある動物、やや労働を要する動物、更に生産的動物、これ等の飼育については学級児童の当番制にて責任をもたせ総合的勤労観を味わう全体観に立った作業を課した。(中略)

 更に書道教育に力を入れてみた。境港大港神社の天神祭に弓浜北部の小学校児童の書道展が毎年開催されているので、それに出品してみたが見事落選し一人も入選作なく平素の指導を疑うようにも思われたので特訓にふみ切り、基本的指導の必要を感じ、当時角盤校訓導の影山盤蹊氏を招へいし、全職員率先して書道練習をして指導観の確立を図り、翌年出品してみると、今回は全員入選特に特選入選で他校の驚きの場面となった。

教師の教材研究、生徒の自主的学習の姿は労作教育の真をついた気がした。

 崎田茂信先生が愛労校在職時代、浜灘の小松を奉安殿《ほうあんでん=御真影や教育勅語を収める建物》の横側に移植したのが年を重ねて相当な松樹《しょうじゅ=松ノ木》となっていた。然し松は毎年手入れをせねば、見るような松とならぬもので、手入れを怠っては、と注意を受けるが、経費の関係上そのままになっていた。

春の農繁休業中(夏子注:農家の児童生徒に農繁期の労働の手伝いをさせるため、学校を休みにしていた)職員作業でやることに決定したが、手入れの手ほどきが必要となり、基本を植木屋より受け、新芽とり、枝さばき、枝つくり、なかなか思うようにはならずも庭園作業はなされた。尊い作業体験だが、松作りはむずかしいものである。

 農繁休業中は職員も忙しい。第一松の手入れ、庭園樹木の手入れ、教材教具の整備、更に社会事業それは農繁期愛労臨時託児所《たくじしょ=保育所》の開設であった。

  開設場所 小学校教室
  収容児  村内農家子弟(約一二〇名)
  指導保母《ほぼ=保育に従事する女子職員》 女子職員中心、婦人会有志、校長夫人、教  職員夫人、郵便局長夫人他
  炊事設備 家庭科教室、臨時施設
  遊戯教具 小学校低学年用
  時間   農繁休校中 朝八時より夕方六時

この施設は農繁休業を利用し臨時的に開設したもので、園児もなつきその効果は十分上がったと好評を受けた。(後略)

前の投稿 - 次の投稿 | 親投稿 - | 投稿日時 2005/9/2 14:19
夏子  半人前   投稿数: 22
1 小学校低学年時代の遊びの一つ「汽車ごっこ」遊びは、人気のある遊びで暇さえあれば停車場(駅)に行って、汽車の発着状況を見学したものだ。

級友の一人が構内に「しば」が繁って居ったので、秋枯れの「しば」に火をつけた。初めは大したことでなかったものが、風が出て大火となり構内の柵にまで燃え移り子供の手で消すことが出来ず大騒ぎとなり、駅員の応援を得てようやく消し止めた。

私達五人は駅につれられ色々と事情を聴取せられ、米子の管理局に送られることになったが、五人の一人に父親が鉄道員であることがわかり説諭で放免《ほうめん=解き放たれる》となった。学校にこの事が報ぜられば、学力優秀品行方正の池田賞受賞が出来なかったのだが幸いこれも難をのがれた。

当時の同僚は今は既に故人で、私一人が生存している。汽車ごっこの発展は、こんな邪道にまで進行してストップ。


2 鳥取師範入学許可され、いよいよその出発の日が来た。祖父は可愛い孫が出発するので駅まで見送った。発車になると祖父は「学校がつらいと帰って来い」としきりに言った。

折しもその列車には当時の有名校長であった箕蚊屋高等小学校校長松本秀松先生が同車して居られ、その一幕をつぶさに眺め、こんな家族の見送りでは立派な教師になれないと嘆かれた。

後で崎田茂信先生に、大篠津は教育村というが、子供を教育するには一考を要すると諭《さと》されたと聴く。今も身にしみ、松本秀松先生の骨のある教師らしい姿が浮かび恥ずかしい。


3 大正十一年訓導を拝命し、いよいよ教壇に立つ身となった。当時の足立正一校長は余子(夏子注:あまりこ)小学校松篠允先生や境の柳楽さん等と境晋《しん》門会を結成し、境港の真光寺を会場として、京都清水寺管主大西良慶師を招いて仏教講座を開かれ、月一回数ヶ年続いた。

講義教本(原人論、仏説四十二章経、その他)会員一同は熱心に受講した。私は其の後の努力成長がなかったので、平凡な人生行路になった。

大僧正は「静坐養高志」と揮毫《きごう=書画をかくこと》してくれた。今や老師は百何歳の齢にも生き生きと説教に余念なき姿は有難き極みである。


4 東京どまん中、中央区の教育長として活躍した浜田忠治君は小学校の同級生で、交際は今も続く。

彼は小学校を卒業するや大志を抱き上京し、向学の念に燃え努力力行大学を経て区役所に就職した。

たまたま上京すると必ず彼氏を訪れたものだが、最後は銀座裏を散歩、浜弁(夏子注:鳥取県西部、弓ヶ浜半島の方言)そのまま語り続けた。同席していた者ども何のことやら英語なら多少わかるけど、浜弁は絶対他人のものにならず、談は益々《ますます》快調、二人で一夜をあかしたものだ。(中略)

私も米子の教育長をやらされ、NHK、山陰放送のマイクに立つ機会を得て標準語でやったつもりが全く浜弁でものにならなかった。浜っ子は何処《どこ》までも浜っ子で、下手な東京弁を止めて、純粋な浜弁が人間らしいことをさとった。

浜の松は白砂青松に育つことが意義がある。

 松岡忠男 著  『限秒』より「浜で育った松の木」 終わり
前の投稿 - 次の投稿 | 親投稿 - 子投稿なし | 投稿日時 2012/10/2 1:29
やっすー  新米   投稿数: 1
前略

突然失礼致します。
私は東京に住んでおります、安田と申します。
私の祖父が大篠津の出身で、明治30年代の生まれです。
私は祖父や祖先の事を調べているのですが、祖父も私が生まれる20年も前に鬼籍に入っており、祖先の事など分かる者が周りにおりません。
また大篠津に親類はいるようなのですが、祖父の代に交流が絶えており、連絡先等全く分かりません。
大篠津に数年前に訪問し、公民館の皆さまや和田御崎神社の宮司さまにはご親切に対応して頂いたのですが、祖先の墓も祖先の事も全く手がかりが掴めませんでした。
そんな折、夏子さまや松岡さまのことを偶然ネットで拝見し、松岡さまのご著書「限秒」を拝読したいと思い、いろいろ手を尽くしたのですが入手できませんでした。
そこで夏子さまにお伺いすれば、何か入手方法のヒントをご教示いただけないかと思い書きこまさせて頂きました。
見知らぬ者のいきなりのぶしつけなお願いですが、もしよろしければどうかよろしくお願い申し上げます。

敬具
前の投稿 - 次の投稿 | 親投稿 - 子投稿なし | 投稿日時 2012/10/2 16:40
夏子  半人前   投稿数: 22
やっすー、こと安田さん、はじめましてm(_ _)m

『限秒』は非売品で、書店などでは売っていないと思います。

著者の孫である松岡氏が、米子市に住んでいますので、
問い合わせてみますね。

もしかしたら、発行の際の残部があるかもしれません。

著者も明治30年代の生まれのようですから、同じ時期に
同じ小学校に通っていた可能性は高いですが、孫の代では
分かるかどうか。

ご先祖様のことが、いろいろお分かりになるといいですね。

では、しばらくお待ちくださいm(_ _)m
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