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関東大震災亡父の記録から

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前の投稿 - 次の投稿 | 親投稿 - 子投稿なし | 投稿日時 2006/3/5 17:40
タツマロ  新米   投稿数: 4
 私の父(1901~1983)は地震前の大正11《1922》年に農商務省(現農水省)に奉職、その直後に関東大震災に遭遇、体験を自分史に載せていましたのでその一部を紹介させて頂きます。

 大正12《1923》年9月1日午前11時58分の出来事であった。当時築地の歌舞伎座《かぶきざ=劇場名》近くにあった農商務省は赤いレンガ造りの4階建てでその4階に勤務していた。
 その日は土曜日で朝から大雨のため、傘、レインコ-ト姿で出勤したものであった。大揺れの直前に私はソバを食べ終わっていたが、震度7.5とかいわれあの揺れ方は全く恐ろしいの一言に尽きる。
 先ず第一に階段に大きなレンガの固まりが落ちていたりあたりを見渡せば大きな亀裂《きれつ=裂け目》が至る処にある。今思えばどうやって1階まで降りたのか、外へ出て歌舞伎座の前を銀座通りに抜け出ていたのである。通りには右往左往の人々、店内から持ち出したゴザ《=敷物、むしろ》などを敷いてたむろ《=人が集ること》している人も沢山見受けられた。
 電車は停車したまま、その中を私は東京駅に向かっていたのである。
東京駅は今までの姿と少しも変わらなかったが、丸ビル付近に差し掛かると、ここで又大きな余震があり、丸ビルから化粧レンガがバリバリとはがれ落ちてきて危険この上もなかった。
 そこを避けながら二重橋前にたどり着いた。あの広場のお堀に平行している道路には、大きな亀裂が出来ていて歩行も危険の中を神田神保町に着いた頃には各所に火の手が上がってて全く騒然たるものであった。丁度地震後約1時間は過ぎていただろう。

 私は何としても我が家に帰らねばならない、水道橋を経て大曲までやって来ると今度は警官が自転車で大声をあげ、さらに大きな地震の予告を叫んでいた。これには全く驚いたのである。
 幸い我が家の方向(大塚町)には火の手はなくようやくの思いで帰宅できたのである。

 4.5日して渋谷の上司の自宅に伺ったら「東京農大の教室(青山6丁目)の一室を借りたので、君は駒場の農学部に行き机と椅子《いす》を借りてこい」と云われ乗り物のない市内を徒歩で農学部へお願いに伺った。
 次いで私は市営の公設市場《こうせついちば=公正な価格で生活必需品を供給する公営の市場》、(といっても本郷宝来町の寺院の境内に設けられた臨時の市場)で、米や塩鱒《ます》軍隊の缶詰などの売り子を約10日間ほど手伝った。
 その後本業に戻り千葉県の農地などの震災状況の調査に従事したのであった。
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