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羽生の鍛冶屋 本田 裕

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前の投稿 - 次の投稿 | 親投稿 - 子投稿なし | 投稿日時 2014/7/31 7:48 | 最終変更
編集者  長老 居住地: メロウ倶楽部  投稿数: 4298
 大工道具に革命の到来 (鋸、その2)

 替刃式鋸は、玉鳥産業の(レザーソー)が先ず、普及し、つづいて、岡田産業の(Zソー)中屋式鋸と、その他の鋸メーカーも、さまざまの鋸分野に替刃式という、交換するだけで目立て修理を必要としない鋸に構造革命に成功しました。

 鋸鍛冶職人が伝統技術でハガネを2枚重ね打ち鍛造し焼き入れをして、銑で鋸板を薄く引き、歪を取り、目立て職人がヤスリで刃形にすり込み、アサリ槌で刃を右、左と交互に出すアサリ出しをして、仕上げの精密ヤスリで刃を立て、手作業の鋸を完成して来た伝統技術の将来に危機がやってきたのです。そして、先々、鋸鍛冶、目立て職人の仕事は激減し廃業の時代がやって来ることになります。

 羽生の町にも、斎藤鋸店、岩崎鋸店と3軒の目立て修理をする店が当時はありましたが、便利を求める競争社会の中で、鋸製造精密機械の開発によって、千年以上も続いて来た製法の伝統技術が消えて行くのは、寂しいものです。

 手鋸両刃鋸の目立てをする時は、鋸万力、目立てヤスリ、アサリ槌、金床、歪取り槌などを使用します、参考写真を添付します。・・・






















前の投稿 - 次の投稿 | 親投稿 - 子投稿なし | 投稿日時 2014/8/8 6:19
編集者  長老 居住地: メロウ倶楽部  投稿数: 4298

 (営業の失敗を生かして)

 
 実用新案の販路開拓の難しさを経験して、本田刃物店が羽生の鍛冶屋として、根を張るには、本田刃物店の、名前と場所、業務内容を地元に知ってもらうことが先ず必要であることを、知らされました。それにはどうするか?、私はチラシを入れることが早道と考えました。私の店は非常に分かりずらい、羽生駅から歩いて5分なのですが、鴻巣県道と本町通りの大通りを結ぶ4mの入り道と呼ばれた、狭い通りから、これまた狭い、3,6メートル巾で25メートルも奥に引っ込んだ所のために、お客さんには、非常に分かりずらく、本田刃物店を地元に知ってもらうことに大変苦労しました。ただ、田舎教師のゆかりの寺、建福寺があり、花屋さんと中村眼科、後に東の新入口に富田脳外科クリニック、そして吉沢歯科が出来て、それが救いの目印となりました。駐車も2台以上となると、車の入れ換えでも毎日何度となく苦労させられました。
 それでも、当時は、近くに駐車場がなく、そのような、悪条件で本通りの商店と比べたら、何倍ものハンデを抱えての、商売の日々でした。

 当時の時点で、お客さんに店に来てもらうために可能なことは、切れる刃物を作ること、上手にハサミや庖丁を修理すること、お客さんの無理を聞いてやることでした。

 それでも、本田刃物店の良さが人の口から口へと伝わるには、食品等と違って、息切れするほどの時間がかかり過ぎることで、宣伝の苦労をさせられました。

 外商での経験で知名度と販路がなかったために壁にあたってしまった。条件が悪い中、本田刃物店を知ってもらうための一案としてチラシを新聞折り込みを市内にすることにしたのでした。

 商売にはパンフレット、チラシ宣伝は必要であると昭和54年から、今日においても続けております。これも、二徳万能販売での壁にぶつかった時に教えられたことなのです。・・・

前の投稿 - 次の投稿 | 親投稿 - 子投稿なし | 投稿日時 2014/9/4 6:44
編集者  長老 居住地: メロウ倶楽部  投稿数: 4298
 

「バブルに向かう中で」

 羽生の縫製業は当時、東日本一と云われていた、ある日、お客さんが来て、「被服やも、あと10年過ぎには、駄目になるよ」と云ったと下請けの旦那が私に言った。

 私もすぐには受け止めなかったが、羽生の縫製業の歴史をひもどいてみると、高度経済成長の昭和30年代ごろから、東北から、ミシンの女工さんを受け入れていた反面、羽生より、東北へ工場を作った方が、安い賃金で使えるというのが被服やの経営者たちの考えでした。そして、昭和40年頃には、少しずつ日本経済の成長の波に乗って、工賃も、徐々に上がり始めました。東北へ工場を作る動き、羽生から故郷へ帰った技術を身につけた女工さんを指導者にして現地で人を集めて製造をはじめました。当時は羽生の被服やさんも、儲かって笑いがとまらなかったのではないかと思います。

 しかし、オイルショックを境に業界の物流は、商社の力で韓国の繊維製品が、日本のスーパー、問屋を通じて、衣料品店に並ぶようになりました。韓国製品と、「日本製品の品質か、韓国製品の価格か」の競争が始まりました。

 高度経済成長期に働く職場の広がった女性。年々日本の女性はミシン掛けを嫌うようになり、若い働き手の少なくなってきた業界は、国内生産から、安い外国生産に比重が掛けられていきました。
 安い外国製品に押され、日本の女性も低賃金の被服業界離れが始まり、若い縫子さんの集まらない時代が目に見えるようになりました。とはいっても、中高年のベテランが多い業界でありましたので、まだ、元気といえば元気といえる羽生の被服業界でした。
 ですから、私の所で扱っている、ハサミ関係は販売と修理においては、まだまだ、需要がありました。

 ところが、私に、「被服やも、あと10年過ぎれば駄目になる」と云ったお客さんの先見の明が当たる時がやって来るとは、昭和54年の時点では私にも読めませんでした。

 やがて来る、バブル崩壊、中国への工場進出が待ち構えているとは。・・・  
前の投稿 - 次の投稿 | 親投稿 - 子投稿なし | 投稿日時 2015/2/12 7:21 | 最終変更
編集者  長老 居住地: メロウ倶楽部  投稿数: 4298
「埼玉鍬の制作」

 昭和55年になって、お客さんから、農道具の要望が多くなり、店に農具が並ぶようになりました。

 中でも、鍬がよく売れるようになり、本格的に鍬の制作に取り掛かりました。
 羽生の農地は、原始利根(会の川)と1600年代に利根川東遷事業で出来た現在の利根川に囲われた砂目土と本つちの平坦な地形地質の成り立ちです。
 そうした土質から、平鍬と云われる、平らな形状にしゃくり、と反りをつけた鍬が昔から使われておりました。

 その鍬にも、形状に異なりがあって、昔から使われていた、はめ込み式の本鍬、大正時代に鍛冶屋の間で造られた大正鍬、昭和になって、菖蒲町(今の久喜市)の鍛冶屋が考案した昭和鍬、そして、熊谷、深谷、鴻巣、の高崎線沿いを中心に使われていた「埼玉鍬」が羽生では農家の人達に使われておりました。

 私は、熊谷の木島さんと鴻巣の石井鍛冶屋さんの鍬を参考に、私が見てもっとも切れる埼玉鍬を当店の推奨として、羽生に広めることにしました。























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