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電気通信大学藤沢分校物語

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前の投稿 - 次の投稿 | 親投稿 - 子投稿なし | 投稿日時 2015/2/13 20:10
編集者  長老 居住地: メロウ倶楽部  投稿数: 4298

 8・3 軍港横須賀と辻堂演習場(注83)続き

 三浦半島の丘陵地帯で隔てられてはいるが、横須賀から直線距離で約15km(原文のママ)に過ぎない藤沢地区が、以上のような軍事基地横須賀地区の影響を受けない筈が無く、まして江戸時代に鉄砲場として設定された鵠沼・辻堂海岸の砂丘地帯が、軍部にとって好適な条件を備えた演習場として注目されたのは当然であった。
 明治期以降、演習場として指定・利用されてきたのは、辻堂村でも小字の大ヤゲン(注83-1)・弥平田・砂山・勘久などの地区にまたがる湘南砂丘地帯[現在の住宅公団辻堂団地・県立辻堂海浜公園・相模工業大学(現湘南工科大学)などの敷地にほぼ相当する地域]を中心に、その西部は茅ヶ崎方面の海岸 (筆者注‥松下政経塾など)まで及んでいた。(第8-1図参照)

 すでに旧幕時代に、鉄砲場として使用されてきた鵠沼・辻堂村の演習場には農民の共有林や開発新田などが含まれ、土地所有権を認めたままで、幕府は軍事目的に同地を利用していた(『市史』第五巻第四章第四節参照)。

 明治初年以降も、政府は旧鉄砲場を一括接収するかたちで、旧幕府から引継いだわけでなく、一部に地主の土地所有権を認めながら、徐々に軍用地として民有地の買収を推進していったようである。演習場の区域内部にある土地所有権の移動に就いては、史料の制約から明らかでない。1906年(明39)、横須賀鎮守府が辻堂海岸の土地40町歩強を買収して、軍事訓練の目的に利用していた事実がある。これは第8-1図の辻堂演習場一1933年(昭和8)当時で、同図から約80町歩余りと概算・推定一の約半分に近かったと考えられる。残余に関しては不明である。また辻堂地区には同演習場以外でも東京築地の海軍造兵廠が羽鳥の地主三野家その他との間に、土地と家屋の賃借関係ないし買収を進めていた事実がある。海軍造兵廠は横須賀造船所、東京・大阪砲兵工廠に次ぐ規模の工場であり、1889年(明22)兵器と火薬の二製造所を基礎に設立された。以後その規模を整備・拡張し、日活戦争当時には、砲身・砲架・砲弾・水雷など海軍で必要な兵器を製造・供給する中心工場となった。辻堂方面に土地・家屋を必要とした理由は、火器弾薬ないし器材などの保管用地などに使用したのであろう。これら造兵廠が進めていた土地は、何れも引地川の下流域にあり湘南砂丘地帯の海軍演習場に含まれる地区であった。これらの鵠沼・辻堂南部の軍用地は、極めて広大な地域にまたがり、それが同方面の軍事的性格を強めていったことは否定できない。

前の投稿 - 次の投稿 | 親投稿 - 子投稿なし | 投稿日時 2015/2/13 20:13
編集者  長老 居住地: メロウ倶楽部  投稿数: 4298

 8・4 海軍演習の状況(明治・大正)(注84)

 1909年 (明42)、川口村村長は、片瀬から鵠沼海岸の西浜に通じる境川筋の 「山本橋の整備」に関し提出した県知事宛の請願書(『町村会議案及び決議書』 川口村役場文書)の中で同橋は架設以来、横須賀鎮守府の海兵団(軍艦乗務の補充員と軍港警備員) などが辻堂演習所へ至る通路に当たり、毎年士官・水兵多数が数十回通行するなどその軍事的重要性を述べている。

 第8-2表は1902年(明35) の1年間に、辻堂海岸において実施された射撃演習の状況を集計した表である。史料はこの年に関して記録されているに過ぎないが、年間を通じて同演習場を利用した官庁は、横須賀鎮守府所属の海兵団・水雷団の他に、砲術練習所・水雷術練習所があり、また軍艦の実弾射撃訓練も実施された。
 ここに登場する軍艦は一等巡洋艦9,700トン級の大型から二等砲艦の600トン級の小型まで多様な形式がみられるが、何れも横須賀鎮守府所属の艦隊のみならず、呉、佐世保、舞鶴各鎮守府に配属のものまで含まれ平時編成に於
ける常備艦隊の一部であった。

 同表はまた、射撃演習が湘南海岸の海水浴の季節7・8両月を避けて12・1月の冬季に集中し、毎月繰り返されていた中でも、この2ケ月に年間度数の約半分が集まっていた。こうした射撃演習は同年のみに留まらず、殆ど毎年実施されていた事は疑いない。
前の投稿 - 次の投稿 | 親投稿 - 子投稿なし | 投稿日時 2015/2/13 20:18
編集者  長老 居住地: メロウ倶楽部  投稿数: 4298

 8・5演習場・別荘地・辻堂駅(注85)

 1872年 (明5) 東海道線(新橋-横浜)が開通し、1887年 (明20) に程ケ谷(現在の保土ヶ谷)・戸塚・平塚駅が開設、同31年茅ヶ崎駅も設置された。1902年(明35)江ノ電線(藤沢-片瀬)の新設は、それまでの鵠沼海岸などにおける別荘地帯・海水浴場に加えて、辻堂海岸方面も、新たな別荘地として京浜地方の人士に注目されるに至り、ここに演習場と別荘地の利害関係が対立するようになった。軍事訓練が避暑・海水浴の季節でない冬季に実施されるという配慮がなされたが地主の不満を抑えるのが出来なかった。然し軍用地の払下げは、この後も容易には実現されなかった。

 辻堂駅開設請願運動は1914年(大3)に「辻堂停車場既成同盟会」が結成され、その設立と共に決議書を作成した。ここには予定駅の敷地及び新設道路用地の買収にいかに応ずるかという申し合わせが記されている。次にその請願書の新駅開設に関する要求の理由を要約する。新駅開設の第一の理由は藤沢-大船駅の距離が約4・5キロに対し、藤沢-茅ヶ崎駅の間隔は約7・5キロの遠距離にあり、辻堂の地域住民にとって駅が多大な不便をもたらしていた。「上流名士別荘住宅」の新築・増加がみられるに至った。その結果、近村の戸数は約1万戸、人口にして約4万人を超え、以上からも地元住民の便宜に応えて欲しいという事であった。第二の問題は辻堂一帯が「雑穀・甘藷」の生産地で、他の地域への移出量は約50万俵に達するうえ、「京菜・魚類」及び他地域依存の肥料、その他生活必需品も増加し、「穀物・果実」 の作付に良い「平担ナル砂質地」が広がり、畑地としての開発の可能性が保証できる。また 「水質極メテ清涼、其ノ量亦甚ダ豊富」なため 「工業家ノ注目」を集めて、工業地帯としての発展の将来性もある事を強調している。第三の根拠は、数百人から千数百人の軍隊が交代で辻堂演習場に出動し、また火器・弾薬・器材が藤沢停車場より輸送されているが、「不便」と「失費」の少なくないことが関係官庁で検討されていると 「灰聞」しており、国家の利益に沿うとしている。この結果、翌年4月辻堂駅の設置承認の内示(約2,500坪の無償提供、移転補償ナシ) が通達され、1916年 (大5) 2月、寄付の所有権移転完了、同年8月起工、新駅は3ケ月余りの短期間で完成した。

 以上のような辻堂演習場を含む湘南海岸一帯の軍事化の中で、1921年 (大10) 11月18日には鵠沼海岸で海軍陸戦隊(横須賀鎮守府所属)の上陸演習が行われ、大正天皇に代って、当時の皇太子 (後の昭和天皇) が統監した事は極めて象徴的な事であった。(以下次号)

注81‥ウイキペディア 「明治維新」
注82~85‥藤沢市史第6巻抜粋、要約
注83-1‥藤沢市史第6巻から引用した 「辻堂海岸の海軍演習場」第8-1図の中で表記されている大ヤンゲンを大ヤゲンとした。その理由は、本文の中では大ヤゲンと書かれ、また、「藤沢の地名」 (藤沢市発行) においても、同様に大ヤゲンと表記されている。
前の投稿 - 次の投稿 | 親投稿 - 子投稿.1 .2 .3 | 投稿日時 2015/7/24 16:31 | 最終変更
編集者  長老 居住地: メロウ倶楽部  投稿数: 4298
 1937年(昭12)の日華事変を契機に、わが国は完全に戦時下体制に入った。この事態に対応するため、政府は同年8月24日の閣議で「国民精神総動員実施要綱」を決定し、挙国一致、尽忠報国、堅忍持久などをスローガンとして、これを日本精神の昂揚を期する国民運動にするとともに、国策遂行の基盤たらしめようとした。その後1941年(昭16)に入ると12月8日、大東亜戦争がぼっ発し、翌年4月18日、帝都東京は、米機による第一回の空襲に見舞われることになった。「防護施設の整備と防護訓練の徹底の指示」がされた。1943年(昭18)に入ると戦局の悪化に伴い、防空の切実度は一段と高まった。さらに1944年(昭19)後半になると、空襲も次第に激しさを増し、防空教育訓練も一段と強化されることになった。(注91)
 藤沢市も近隣と同様軍事都市化されていく。


9戦時下の藤沢市の状況

 9・1 軍需工場の進出(注92)

 1933年(昭8)の「神奈川工場名簿」により藤沢市域内の職工5人以上の工場をまとめたのが表9-1である。同表をみてすぐわかることは製糸業の比重の高さである。31工場のうち8工場(約25%)を占め職工数は1096名(約67%)を占める。辻堂の蚕糸興業は1931年(昭6)東京の資本家によって設置されたが、恐慌により経営は順調に進まず、1934年(昭9)には三井物産の委託経営となり、1937年(昭12)には片倉製糸に移った(☆終戦後閉鎖)。東京螺子製作所は1921年(大10)に東京から片瀬に移転し、職工90名で航空機・船舶用精密ネジなどの軍営品を生産し急速に発展していた。他に目立つのは醸造業である。伝統的な酒造業(松本・加藤)に加えて大和・東京・東海などの市域外の有力資本家が出資し、甘藷による醤油醸造、合成酒、洋酒などの醸造を行っている。表9-2は職工数10名以上の1940年(昭15)の旧市域の工場名簿である。表9-1と9-2は地域が異なるとはいえ、市域の工業の様子は相当異なっていることがわかる。
 関東特殊製鋼は1932年(昭7)に鵠沼に工場を設立し、1937年(昭12)に39名で航空機・船舶用のバネ、ロールを生産していた。住友金属工業の系列に入ると同時に大々的に拡張し、町の用地斡旋によって辻堂駅北側に移転した(☆2010年(平成22)解散。跡地を含め湘南C-Ⅹとして都市再生プロジェクト事業が進行中である。☆印は筆者注として書き添えた)。
 日本精工はわが国有数の鋼球・軸受専門メーカーで、重工業の発展に伴って需要が急増し、1938年(昭13)に鵠沼地区東海道線北側で職工145名で開業した。その後急速な発展を遂げた。前述の東京螺子も軍拡の時代に入ると、各種砲弾の薬莢・弾丸の製造を加え、1939年(昭14)に1500名、1945年(昭20)には5950名の職工を擁する迄拡大した(☆1981年合併によりミネベア株式会社藤沢工場となっている)。
 これらの大工場は職工10名以下の下請け・系列会社を多数生んだ。昭和恐慌からの回復と満州事変以降の軍事化が同時に進むことにより、日本の工業は重化学工業化を一気に進めた。京浜工業地帯に近接し、労働力も豊富にあり、工場適地も多かった当地城に、昭和10年代に軍需工場が進出してきたのである。
















前の投稿 - 次の投稿 | 親投稿 - 子投稿なし | 投稿日時 2015/7/25 6:00
編集者  長老 居住地: メロウ倶楽部  投稿数: 4298

 9・2経済統制の進行(注92)

 日中戦争が長期化すると、一層の軍需増強が必要となり、軍需生産拡大のため、民需を圧迫する戦時経済統制が本格化していった。流通段階から始まった配給も、消費者への割当て配給が不可避になり、藤沢では1910年(昭15)7月の砂糖の配給制を皮切りに米・酒・味噌などの食料品、マッチ・靴下・木炭などの日用品も配給制となり1942年(昭17)末までには、その枠外に残されたものはないほどまでになった。

 軍需生産への資材・労働力の集中化をはかるため、1942年(昭17)には企業整備令が出され、1944年までに718名の転廃業者を出した。小売業者は、営業を続けようにも品物がなくなり、残った商人も統制物資の配給業務を担当してわずかな手数料を得るにすぎなくなった。1942年度(昭17)後半になると、金属類の回収が始まり、記念物・銅像・鐘などあらゆる物が対象となり、遊行寺の一遍上人の銅像も供出された。一般家庭からの回収を促進するため、藤沢市内の廃品回収業者43名を統合して藤沢市資源回収班を編成した。

 出征と労務動員によって農業労働力が減少し、肥料などの資材も不足してくると農業生産が急速に低下し、1939年度(昭14)から銃後農村生産力拡充運動が展開された。農繁期の共同作業、共同炊事、畜力利用が推進された。都市近郊農業として発展してきた果樹・高級野菜・花卉(☆かき)なども1941年(昭16)から栽培を禁止された。更に制限・禁止だけでなく、県から割当てられた量を目標に、米「麦・甘藷・馬鈴薯などの生産計画をたて、部落単位に作付けと供出量を決定した。あらゆる経済活動が「聖戦完遂」という目標に隷属し市民一人、一人の生活の全てを規制するに至ったのである。
前の投稿 - 次の投稿 | 親投稿 - 子投稿なし | 投稿日時 2015/7/26 5:51
編集者  長老 居住地: メロウ倶楽部  投稿数: 4298

 9・3辻堂演習場(昭和期)(注93)

 1911年(明44)、海軍砲術試験場は千葉県方面に移し、辻堂の用地は主として海軍陸戦隊の演習の専用地となった。

 9・3・1射撃場設備要図(注94)

 1942年(昭17)に横須賀海軍砲術学校が作成した「辻堂付近」図のなかの辻堂海岸の「海軍用地」部分を写した「射撃場設備要図」(辻堂茂兵衛資料館蔵)がある。その図に演習に関するさまざまな情報が書き込まれている。(紙数の都合上、詳細は省略する)

 9・3・2演習(新兵教育総仕上げ) (注95)

 ・海軍機関学校(後の海軍工機学校)の生徒も合同で演習に参加した。
 ・辻堂海岸の広大な砂丘を戦場に見立て、紅白に分かれて演習を行う。
 ・攻撃部隊、陣地防御部隊のいずれかとなり、3日間行う。
 ・最初は中隊単位で演習を行う。
 ・白い事業服を着て、斥候の訓練、報告要領の訓練をしながら前進する。
  同時に、相手との駆け引きを展開する。
 ・仕上げは白兵戦(大隊対抗の遭遇戦)となる。
 ・各隊との連携訓練を重ねながら敵に接近し、攻防戦を展開する。
 ・この訓練は空砲を撃つことが許される。
 ・戦機が熟すると「着剣」の号令がかかる。
 ・小銃の先に銃剣を差し、突撃ラッパを合図に敵陣へ突進し、最後に双方が着剣を十字に組合せ、「ウオーッ」と大歓声を上げ、白兵戦を終了する。
 ・最終日は、追撃退却戦を行う。
 ・辻堂から鎌倉まで砂浜を走り、鎌倉市街地を経由して、一挙に駆け抜ける。

 演習写真(9-3)を示す。(注%)

 9・3・3民宿

 ところで演習のために訪れた兵士達は、演習地の北に隣接する辻堂集落(現辻堂元町3丁目付近)に民宿した。明治時代から「民宿」が行なわれていてその後「民宿」は慣習・常態化したため、辻堂の民家の構造は年毎に改造され、田舎には珍しい座敷と浴場を備えるようになり、それなりの経済効果をもたらした。(注93)
 宿泊には一応の費用は払われていたが、それ以上に宿を貸す家々の準備のための出費は大きかったと思われる。なお、兵隊達の食事は烹炊所(ほうすいじょ)に定められた家で作られ、宿泊家の負担にならなかった。辻堂元町の古いお宅には、宿泊した兵隊と家人が並んで撮った記念写真が数多く残されている。(注97)

前の投稿 - 次の投稿 | 親投稿 - 子投稿なし | 投稿日時 2015/7/27 6:19
編集者  長老 居住地: メロウ倶楽部  投稿数: 4298
9・4藤沢市内軍事関連施設

 戦時下の藤沢に存在した軍事関係の施設(注97)に関する記載の抜粋である。尚、文中の「横須賀海軍」を「横海」と略した。また筆者は、引用した地図(9-4)に施設の位置を番号で、軍事工場に名称を加筆した。⑪の辻堂兵舎の実際の所在地は、茅ヶ崎市である。

 ①横海施設部藤沢施設事務所
 ②第一海軍燃料廠藤沢分工場
 ③第一海軍衣糧廠辻堂支廠
 ④横海電測学校
 ⑤横海警備隊防空見張所 片瀬・六会
 ⑥横海特別陸戦船隊砲台 片瀬・江ノ島
 ⑦第20連合航空隊司令部
 ⑧第20連合藤澤海軍航空隊
 ⑨横海通信隊六会分遣隊通信隊送信所
 ⑩横須賀海兵団辻堂兵舎
 ⑪横須賀海兵団辻堂演習場

 このうち無線関連の施設は3ヶ所(④⑧⑨)である。またこれらの全ての施設は敗戦とともに消滅、瓦解した。
 ④電測学校‥遅々として進まないレーダー・逆探の開発に対して、その技術研究を推進するために、艦政本部隷下の技術研究所と海軍航空本部隷下の空技庁支庁を統合し、海軍省外局の海軍電波本部が1944年発足した。研究者の拡大と同時に、艦船・地上基地のレーダー技術者の養成を意図し、同年9月1日に開かれた。藤沢には藤沢海軍航空隊が6月に開隊されており、藤沢空との連携が図れると考えた。(注98)
 ⑧藤沢海軍航空隊‥無線兵器(戦闘機電話・電波探信桟)整備員養成を目的として開隊された教育隊で、殆どは開隊前に教える理論が正しいか実験を行ったり、教科書を作ったりして開隊の準備を進めていた士官・下士官である。第一期の入隊は、1944年6月第14期甲種飛行予科練習生の400名、その後最大1万名に及ぶ兵士が練習生として教育を受けている。(注99)
 地図には官立無線電信講習所の名が見える。
 六会送信所、海軍電測学校、藤沢航空隊、無線電信講習所が、揃って1941年(昭19)に開設された事実は海軍と藤沢市との深い関係を示すものである。
 次回は無線電信講習所の建設を中心に述べる。
 (以下次号)

 注91‥藤沢市教育史 通史編 近代
 注92‥図説ふじさわの歴史
 注93‥現在の藤沢
 注94‥演習場チガサキ・ビーチ
 注95‥ウィキぺディア「横須賀海軍砲術学校辻堂演習場」
 注96‥郷土史家大石静雄氏所蔵
 注97‥「戦時下藤沢の軍事施設」
 注98‥ウィキぺディア「海軍電測学校」
 注99‥「藤沢海軍航空隊研究」

前の投稿 - 次の投稿 | 親投稿 - 子投稿なし | 投稿日時 2015/12/17 6:54
編集者  長老 居住地: メロウ倶楽部  投稿数: 4298

(前号まで)

 平成22年、藤沢分教場に関する資料が少ないことに注目した編集委員会の勧めがあり、私は目黒会、大学、藤沢市文書館、鵠沼郷土資料展示室、関係者等に残る資料を掘り起こし、藤沢分校の歴史を蘇らそうと思ったのである。

 大正6年電信協会(明26年組織、若宮正音会長)は安中電機製作所から帝国無線電信講習会を継承経営し「国家のための無線学校を創設する計画」を唱え、公益法人化組織にすることを決め、電気通信大学の前身、社団法人電信協会管理無線電信講習所が認可されて、1918年(大7) 東京麻布区に開設した。電信協会から1942年(昭17)官立無線電信講習所の成立までを述べた。

 無線電信講習所初代所長若宮正音(在任期間、大7~13)及び第2代所長若宮貞夫(同、大13~昭17)のひととなりを再掲する。
 電信協会会長若宮正音は1854年(安政元)岡山県豊岡町に在る西楽寺の若宮正海長男とし
て生まれ本家と僧籍を次弟に譲り、自らは大阪師範学校で学を修め、教員、和歌山新聞編集長
を経て工務部の官吏となり、逓信省大臣秘書官、外信局次長、工務局長を経て1891年(明24)
初代の電務局長となる。電話開設につき渋沢栄一等の民営論と工務部(後の逓信省)の官営論があったが、初代逓信大臣榎本武揚、逓信次官前島密を説いて官営論を実現させ「電信電話線建設条例」を制定、電話事業の生みの親ともいわれている。漢籍や書を愛したが、碁が好きで、秋山好古陸軍大将(坂の上の雲の主人公)や土佐の政客竹内綱(宰相吉田茂の実父)などが訪れた。秋山将軍は馬を玄関前の松につないでおいて囲碁を闘わせられ、吉田茂もよく迎えに来られたという。1924年死去。

 若宮貞夫は1875年(明8)豊岡町若宮正海三男として出生。1899年(明32)東京帝国大学法学部卒業後逓信省に入省、同年正音の養嗣子となる。1922年(大11)逓信次官、1924年退官、同年衆議院議員に当選。1931年陸軍政務次官、1934年(昭9)政友会幹事長、1941年鳩山一郎を中心とした同友会結成に参加。その他衆議院予算委員長、国連協会理事を務めた。1946年(昭21)死去。貞夫の四女正は元高知県知事橋本大二郎の母、貞夫は大二郎の外祖父にあたる。正は元総理大臣橋本龍太郎の義母。
 藤沢市の歴史的、地域的な特質から、江戸時代に辻堂鉄砲場が設置され、その管理には代々江川太郎左衛門家が藤沢宿代官として、民政にあたっていた。明治維新により、辻堂鉄砲場は日本海軍横須賀海軍砲術学校として引き継がれ、近代化を急ぐ日本は藤沢市もまた軍港横須賀との結合を前提に軍事都市としての機能を持たせ、海軍と藤沢市との密接な関係をもたらした。一方満州事変、日支事変、第2次世界大戦と益々広がる戦局は通信を絶対不可欠なものとし、無線従事者の養成が一層急務なこととして認識された。

 1942年(昭17)3月24日、逓信省は無線電信講習所の官立移管を進める一方、藤沢分教場の建設に関し大蔵省、藤沢市と交渉を進めてきた中村純一電務局長は藤沢市長に校舎借入に関する公文書を送った。「時局柄経費の関係を考慮した結果、所要の校舎、寄宿舎等は借入に依るとの方針で、昭和17年度予算に計上し予算の成立を見ましたが、貴市城内に格好の敷地を認めましたので、該地に無線電信講習所を設置したく、以上の事情を御諒察の上、貴市に於いて本件講習所新設に関する校舎、寄宿舎等を新営の上、これを政府に貸与方、御配慮を煩わしたく照会致します」。同年3月26日に大野守衛藤沢市長は、藤沢市会に「官立無線電信講習所新設費起債に関する件」を上程し、可決した。(注1001)


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編集者  長老 居住地: メロウ倶楽部  投稿数: 4298

 10藤沢分教場の建設

 10・1 官立無線電信講習所開校

 1918年(大7)12月設立の電信協会管理の無線電信講習所は24年の歴史の幕を閉じ、1942年(昭17)4月1日、官立の無線電信講習所として生まれ変わる。中村純一逓信省電務局長は官立無線電信講習所所長(兼務)に就任した。

 移管された4月、初めての新入学生がその門をくぐった。即ち船舶科の高等科並びに普通科の学生各300名、航空機科の高等科生100名、そして陸上科の高等科生及び普通科生各50名ずつ合計800名を迎え入れた訳である。この他に電信局協会管理時代の本科、選科、特科を加えれば1200名を超えていたと思われるのである。このため高等科と本科生は午前8時から午後2時まで普通科の全部、そして選科生と特科生の一部は午後2時30分から午後8時30分までの時間割で施行せざるを得ず、官側からの派遣講師も相当戸惑った筈である。(注1002)


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編集者  長老 居住地: メロウ倶楽部  投稿数: 4298
 10・2官立無線電信講習所の設立に當りて

 中村純一官立無線電信講習所所長は無線電信同窓会に次のように寄稿した。(注1003)

 昭和17年4月1日は我国無線界にとり記念すべき日となった。それは我国に於ける無線通信士の養成を国家が自ら経営することとなり、官立無線電信講習所がこの日を以って関係各方面就中無線通信界の祝福を受けて、新らしき第一歩を踏み出したからである。我が国に於ける無線通信士養成事業の歴史を茲に事新しく説く必要もないのであるが、電信協会が逓信省の慫慂(筆者注ショウヨウ、誘い勧めること)に依り民間関係各方面の協力の下に、群立せる養成施設を総合し、大正7年12月8日を以て所謂社団法人電信協会管理無線電信講習所を創設したのであるが、爾来同協会は全力を挙げて本邦無線通信士の養成に当られ、設備の改善に、学制の改革に、経営上幾多の苦心を傾注し、逓信省亦資格検定の銓衡に、補助金の交付に或は昼夜にも講師の派遣に、真に協会と一身同体となりて無線通信士の養成に尽くしてきたのであるが、支那事変勃発以来無線通信士の需要愈々急迫を告ぐるに至り、養成人員の飛躍的増加を図る必要に迫られ、他面時局下無線通信運用の完璧を期する為無線通信士の質的向上を期する必要が痛感せらるるに至り、関係方面の積極的援助協力の下に官立無線電信講習所の設立を見ることとなったのである。

 茲に我々の忘れてならないことは電信協会が多年苦心経営せられ、内容外観とも真に我が国無線通信士揺藍の殿堂とも謂うべき校舎等施設の一切を無条件に挙げて政府に寄附せられたことで、我々は固より、聞く者をして洵に感に堪えざらしめるものがある。

 私は伝統に輝く官立無線電信講習所の初代所長として教職員の協力を得て、所風の刷新、施設の改善拡充、教育内容の充実、生徒の心身錬成に鋭意努力しつつある。即ち生徒に対しては質実剛健しかも明朗豁達に日々の学業にいそしみ、身体を鍛錬し、規律を重んじ、礼節を尚び所風の高揚に努めしむると共に、至誠奉公の信念に燃ゆる皇国無線通信士として、沈勇克く事に処し、責務完遂の信念に徹せしめる様、錬成に努むる覚悟である。

 講習所としては施設すべき事項頗る多ので、将来逐次実行に移して行きたいと存ずるのである。官立校開設早々より新卒業生が続々と送り出されるのであるが、これらの卒業生に対しては同窓の先輩たる本会々員の懇切なる御指導を願わねばならない。年々共に否、月と共に優秀なる無線通信士を送り出そうと我々教職員一同張り切っていることを諒せられ、同窓先輩諸君に於かれても研讃且精励せられ、新人に対し好模範を示さるる様切に自重を望んでやまない次第である。
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