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羽生の鍛冶屋 本田 裕

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前の投稿 - 次の投稿 | 親投稿 - 子投稿なし | 投稿日時 2013/2/7 8:11
編集者  長老 居住地: メロウ倶楽部  投稿数: 4298

 開店して、1ヵ月が過ぎた。お客さんも、はじめて見る顔の人が多くなりました。縫製に関係する人をはじめ、農家の人、そして、大工さんが目立ちはじめました。

 大工道具と云えば、鋸、鑿、鉋、玄能、など、数十種類の道具となります。東京の問屋と取引を始めたことで、品質に落ち度はなかったのですが、地元の大工さんの使用している道具の値段を聞いて、仕入れ単価が高めであることに気が付きはじめました。

 鑿を例にとると、鑿には、追入組鑿十本組があります。当時の大工さんは、十本組で2万円程度の鑿を使用していました。私の店では、2万5千円と三万5千円の値札を付けておりました。知り合いの大工さんから、「ちょっと高いんじゃない」と云われ、近隣の大工道具専門店の販売価格を何か所も調べて歩きました。

 そこで、分かったことは、やはり、私の店の大工道具は、近隣の中で、割高であることが分かりました。「仕入れ価格が高い」ということです。経験の浅い私にとっては、ショックでした。
 東京の問屋へ行き、専務に価格交渉をしましたが、うまく逃げられてしまいました。

 開店して、最初のつまずきが、仕入れの勉強が甘かったことでした。
 大工道具の販売価格を大幅に下げて、損を覚悟で見切り処分することにしました。東京の大工道具の問屋とは縁を切ることになりましたが、その問屋の課長が、情けの心で新潟の大工刃物の産地、与板町の良心的な問屋を紹介してくれました。

 東京製というレッテルだけで、取引をはじめてしまった私には、50万程の損失が月謝となり、仕入れ、品定めの勉強をさせる切っ掛けとなったようです。

前の投稿 - 次の投稿 | 親投稿 - 子投稿なし | 投稿日時 2013/2/9 8:31
編集者  長老 居住地: メロウ倶楽部  投稿数: 4298

 大工道具では、大変な授業料を払いました。しかし、裁ち鋏(ラシャ鋏)、については、何といっても、東京の職人が作った鋏が最高品です。

 東京下町を中心に、千葉県に実力ある十数名の名工が活躍しておりました。長太郎、正次郎、長勝、兼吉、団十郎、本常正、長十郎、庄三郎、増太郎、正太郎、総太郎、などの銘で東京鋏工業組合「東鋏」として、東京の問屋を通じて全国の刃物店、金物店へ流通されておりました。

 私も、浅草の問屋と取引をはじめて、ラシャ鋏に関しては一流品ばかりを店に並べました。また、握り鋏は、同じ問屋を通じて、播州小野産の一流品を揃えました。衣料の町羽生では、縫製に関係する数千人の人達が、切れ味の良いものばかりを使用していたからです。

 開店当初から、鋏は売れました。それだけに、顧客につなげていくために販売、修理に遣り甲斐のある商品でありました。そして、衣料の町に生まれたからこそ、私に、第二の人生、生活の糧となる仕事が与えられたものと考えております。

前の投稿 - 次の投稿 | 親投稿 - 子投稿なし | 投稿日時 2013/2/12 8:10
編集者  長老 居住地: メロウ倶楽部  投稿数: 4298

 昭和52年開業時、鋏と業務用庖丁の一流品を取り扱う浅草駒形にある問屋と取引をはじめました。そこで、社長に、職人の工場を見たいから、連れて行ってくれと、頼みました。社長は、二つ返事で、松戸にある宇梶鋏製作所へ案内してくれました。

 宇梶さんは弟子を一人おいて、ラシャバサミと刈り込み鋏を作っておりました、私の見学目的は、どんな設備機械でどんな工程で研磨仕上げをしているかです。

 宇梶さんは、仕事場を真っ先に見に来たことで、私を褒めてくれました。半日ほど仕事を見せてもらい、必要な機械、道具とハサミの研ぎ方の手順とポイントを習得させていただきました。ハサミ修理の道が一気に拓きました。

 私の店では、宇梶製の「本常正」「長十郎」を中心に、保坂製の「兼吉」岡本製の「長勝」岩田製の「増太郎(SLD)石塚製の「長太郎」広瀬製の「明作」三浦製の「庄三郎」を店頭に並べました。

 宇梶鋏制作所での見学は羽生の縫製作業に従事する皆さんに、ハサミを愛用してもらえるように、修理も合わせて、貴重な勉強となりました。

 工場見学の帰り道、技術の精進、磨きをかける決意が、私の中に湧き上がりました。

 添付した写真ですが、明治15年吉田弥吉が、ラシャ鋏の原形を作り、多くの弟子たちを育てたのですが、その弟子たちの系統図です。

前の投稿 - 次の投稿 | 親投稿 - 子投稿なし | 投稿日時 2013/3/31 6:40
編集者  長老 居住地: メロウ倶楽部  投稿数: 4298

 「庖丁」

 昭和52年、刃物店を開業して、大工道具、ハサミと共に庖丁を当初のメイン商品としてとりあつかった。東京の問屋を通じて、業務用は、浅草の正本総本店の和庖丁、築地の杉本牛刀、中華庖丁、横浜の正金牛刀、そして、庖丁生産地、岐阜のミソノ牛刀を主に販売しました。当時は、羽生の町にも、魚屋、寿司や、肉屋と云った、職人腕を持った、個人店が在りましたから本物の庖丁を取り扱う必要がありました。ちなみにプロの庖丁の当時価格はサイズ、種類、材質にもよりますが、概ね1万~2万と行ったところでした。そして、家庭用の菜切り庖丁の価格は上級物で3千円~4千円でした。浅草の問屋は、鋼の良い庖丁を扱っていたので、お客さんからは好評で、よく売れました。月に一度は、社長が見え、私も勉強のために時々、駒形に出向いて、直接、品定めをして、仕入注文をする形をとりました。また、東京の問屋には、刃物関係の方が出入りしているので、私にとっては、日本の刃物業界の情報を得る場でもありました。

 やがて、私には、刃物を作る時がくるのですが、手さぐりの奮闘が始まります。

前の投稿 - 次の投稿 | 親投稿 - 子投稿なし | 投稿日時 2013/4/2 7:23
編集者  長老 居住地: メロウ倶楽部  投稿数: 4298

 「野鍛冶へのきっかけ」

 昭和52年4月10日開業の本田刃物店、手さぐりの中で初夏を迎え、農家の人から農具の、くわ万能、草削り、鎌、鉈、のこぎり、唐くわ、薪割り、植木鋏などの、園芸農作業に使う、刃物道具の依頼が飛び込んで来ました。

 ラシャ鋏、庖丁、大工道具をメインにスタートした本田刃物店です、対応に間に合わず、お客を逃がさざるをえませんでした。急きょ、産地である三条、播州、武生、土佐産の園芸農具の専門問屋を探し、三条、播州、武生の問屋とつながることが出き、取引問屋は、浅草、与板、三条、播州小野、武生の五軒となりました。得意分野に区分けして、取引することにしました。

 しかし、昭和36年から39年の3年間、富士電機吹上工場の技能訓練生時代に金属材料について基礎勉強した知識と現場経験から、当時産地で作られ当店で扱い始めた刃物商品が、私の目には、一部を除いて合格点が上げられませんでした。

 当時、ホームセンターもあちこちに出来始め、量産化された商品が、目立つようになりました。

 私の町にも、当時は、まだ金物店が頑張る中、個人のホームセンターも出来、隣りの加須にも、行田にも、館林にも、吹上にも集客力の高いホームセンターが、次々と出来、拡大して行きました。

 市場が高品質より安価商品、を目指すようになり、その流れの中で産地も機械化を図り、量産体制で作業工程省略のものづくりへと舵を切り始めておりました。そのためか、匠の仕事、職人技の商品が減り始めて来たことも問屋筋の産地事情から分かって来ました。
お客さんに満足してもらえる商品を取り揃えることの、難しさが、じょじょに、私には、壁となって、自分が作った方が、良い物が出来るのではないかと、考えるようになって来たのです。

 昭和52年夏のことでした。
前の投稿 - 次の投稿 | 親投稿 - 子投稿なし | 投稿日時 2013/4/6 7:57
編集者  長老 居住地: メロウ倶楽部  投稿数: 4298

 「鍛冶屋を灯す準備」

 昭和52年秋、私の胸の内は、昭和10年頃まで、お祖父さん、お祖母さんが江戸時代から続けて来た、鍛冶屋業を営んでいた。青森県川内町の、むつ湾に流れ込む、川内川の河口のそばに、父は生まれたが私の父は家業を継がずに、上京し、日本橋の印刷屋に住み込み、働きながら現在の明治大学に通った。家業を父の兄弟達も役場や営林署などに勤め家業を継がなかったことから、江戸時代から続いた鍛冶屋の灯はお祖父さんの代で消えることになったのです。

 それから、40年間の間、大東亜戦争を経て終戦の年9月に再び、鍛冶屋の火を灯すことになる私が生まれたのであるが、幼年時代においては、鍛冶屋になることなど考えたこともなく、5歳の時は朝鮮戦争が勃発して、羽生の上空にも、轟音を響かせ輸送機が毎日通過して、私は、空を指差して、「そあ、そあ」と「ら」の発音が出来ず、空を指差しては、大人たちに笑われながら可愛がれていた記憶があります。小学6年ごろから、理科と社会が好きになり、特に気象や天文学に興味が出て大人になったら、気象庁に勤めたいと子供なりの夢がありました。

 しかし現実は夢を可能にしてくれず、14歳の頃から、父の健康が優れず、兄達3人は高校に進学出来たのですが、すぐ上の兄と、私は、就職への道を自ら決めたのです。特にすぐ上の兄は、中学1年から新聞配達をして、家計の足しをして、卒業したら新宿のパン屋に就職しました。

 私は、高校進学を諦め、気象庁に勤める夢も捨て、富士電機で技能訓練生の募集があり、5倍の競争率でしたが、何とか合格して、技能と技術への道に入ることになりました。

 父は青森の鍛冶屋のせがれ、母は羽生の農家の娘、その間に生まれたのが私であるが、先祖の血が私をじょじょに鍛冶屋の火を灯すようにしているのかと今にして見れば思えることである。

 3歳の時のまるまるした坊やが、30年後に羽生の鍛冶屋として再び鍛冶屋の火を灯すのですから、人の先のことは、分からないものである。添付写真は、幼年時代の私、先祖の家の町の風景、と昭和20年代の鍛冶屋の家で育った親族の写真を添付させて頂きますが、自分で農具、刃物を作ろうと腹が決まりだした以上、近隣の鍛冶屋見学、刀鍛冶鍛錬所での勉強、鋼材や、工具や、コークス、松炭、溶剤機器、ガスや、鉄骨や、棒や、などなど足を運んで準備体制に忙しくなることになりました。

 本田刃物店を開店して、半年後のことですから、無鉄砲と云えば、そういうことになるのでしょう。







前の投稿 - 次の投稿 | 親投稿 - 子投稿なし | 投稿日時 2013/4/7 7:46
編集者  長老 居住地: メロウ倶楽部  投稿数: 4298

「鍛冶屋巡り」と機械の設置

 昭和52年秋、鍛冶屋の火を灯そうと、決意が固まってきて、当時健在であった鍛冶屋を訪ねて歩きました。
 熊谷の木島鍛冶店、鴻巣の石井農具店、小川町の湯本鍛冶店、古河市の川田鍛冶店、黒須農具製作所、などを訪ね、作業場の設備、配置を見させて頂きました。同業者だけに、親切な人ばかりではありませんが、多くが鍛造機械のメーカーや設置の仕方を教えてくれました。

 さっそく、鍛造機械の設置できる作業場づくりの準備と鍛造機械メーカーにスプリングハンマーを発注し、市内で鉄工所をやっている兄の友人の(山ちゃん)に小屋作りを手伝ってもらうことにしました。スプリングハンマーは熊谷の木島さんが使用している、新潟、三条市の寺沢鉄工所へ注文しました。

 2週間ほどで機械が東武運輸で運ばれて来ました。機械設置図を元に350キロの機械が乗るため1、5立米の生コンが打たれアンカーボルトも埋め込まれてスプリングハンマーの機械の基礎が作られました。

 そして、1週間後に上部機械ハンマー部と下部の金床がアンカーに固定され、スプリングハンマーの設置は終わり、モーターの電気配線をして、完了しました。

 急いで小屋が出来、次の段取り作業は、鞴(ふいご)の制作となります。・・次回で説明
前の投稿 - 次の投稿 | 親投稿 - 子投稿なし | 投稿日時 2013/4/12 7:38
編集者  長老 居住地: メロウ倶楽部  投稿数: 4298

 
 鍛冶屋作業場完成「神事」

 11月8日は鞴祭りの日です。「たたら祭り」とも云われ鍛冶屋が仕事を休み、鞴を清めて新米、新酒、果物、海の魚をそなえて祖神のご加護を感謝し、仕事の繁栄を祈願する祭りです。
 鞴祭りは、15世紀の中ごろから大阪、堺の鉄砲鍛冶の間から始まりました。

 伏見稲荷の御火焚の日、11月8日にお札をうけて鍛冶場に祀る風習が、日本のあちこちの鍛冶屋に関系する仕事をやっている人達に広まったお祭りであると理解している。

 私は富士電機に勤務していた昭和40年前後、鍛冶作業が多い板金工場で鞴祭りの経験がありました。未完成ながらも、スプリングハンマーの設置が済み、火床と作業台が完成したことで、十数年前に経験をしたことを想い起こし、地元の神主さんに頼んで祈願祭を行いました。

 昭和52年11月8日、祈願祭を執り行ったことで、八代目としての羽生の鍛冶屋の火が再点灯したのであります。
 これから、数々の段取りをしながら、本格的な鍛冶屋を目指しての勉強が待ち受けております。


前の投稿 - 次の投稿 | 親投稿 - 子投稿なし | 投稿日時 2013/4/24 6:37
編集者  長老 居住地: メロウ倶楽部  投稿数: 4298

 刃物鍛冶精進の道(日本刀)

 青森県陸奥湾川内町で江戸時代から先祖が燃やしていた鍛冶屋の火を昭和52年11月、先祖の血を引く私が、埼玉、羽生の地で40年ぶりに灯した。

 お祖父さんを知らない私ですから、お祖父さんから鍛冶屋の仕事を仕込まれたわけではなく「いつの間にか、お祖父さんがやっていた鍛冶屋を始めることになった」ということであり、私自身の人生の紆余曲折の試練の中から、鍛冶屋の火を灯すことになったわけです。

 その後の刃物店のことは後に記すことにして、鍛冶屋の火床にコークスが燃え、スプリングハンマーの調子に慣れる練習の日々を送りながら、鋼材の買い入れ先に足を運びました。一般特殊鋼は、熊谷市の熊谷特殊鋼、刃物鋼は東上野の岡安鋼材が買い入れ先に決まりました。

 そして、私が、勉強先として、よく足を運んだのが、熊谷の刀匠、四分一二三さんの所です。当時は秋田と山形から二人の弟子がおりました。四分一さんは、娘さんが、通信教育大学講座を勉強した私の後輩でもありました。

 そういうこともあってか、私に対しては、もったいないくらいの対応をしてくれました。
 「武州住熊谷太郎源重秀」が刀匠、四分一さんです。奥さんは八重子さん、教養を備えたしゃべりの中に、鍛冶屋を始めた私を讃える言葉が、いつもありました。

 四分一さんは、私を弟子にしたいような気持ちで、刀の鍛錬場で、刀の出来るまでを何度となく見せながら、教えてくれました。時には、私は刀の焼き入れを手伝ったこともありました。
 また、四分一さんは、日本刀を由緒あるところに奉納したり、後に酒井雄哉氏、大阿じゃ梨に刀を贈られもしました。

 刀匠、「武州住熊谷太郎源重秀」昭和53年当時の写真ですが、私は横で玉鋼を鍛えながら、32768枚の層になって刀となって行く過程をじっと見ておりました。

 四分一さんから学んだことは、いくつもありますが、また、折りに触れて記することがあると思います。

前の投稿 - 次の投稿 | 親投稿 - 子投稿なし | 投稿日時 2013/5/9 10:24
編集者  長老 居住地: メロウ倶楽部  投稿数: 4298

 (初めて庖丁を造る)

 昭和53年4月、刃物店を開業して1年が経ちました。52年11月8日、鍛冶屋の火を灯し、急きょ、即席ながらの練習修行を開始して、燃焼の加減、機械、作業道具に慣れること、岡安鋼材から仕入れた高級刃物鋼の性質テスト、などをくりかえしながら庖丁造りに挑戦しました。

 富士電機に勤務していた技能訓練所の基礎勉強と、溶接、鍛造、熱処理等の経験を思い起こしコークス炉に火を入れました。

 極軟鋼を800度程に加熱、タガネで割り込みを入れ、日立金属安来鋼青紙二号(タングステン含有)の刃物鋼を極軟鋼と共に加熱、そして軟鉄とハガネを接着させるための鍛接材の(テツロウ)をまぶして極軟鋼の割り込み部分にハガネを挟み込み、コークスの中に入れ炉の温度を上げ加熱、800度~850度の範囲内で(テツロウ)が溶け出す状態を見て、極軟鋼とハガネを素早く鍛接(ここで、村の鍛冶屋のうたの如く、火花が飛び散ります)

 つづけて、800度前後で加熱をしながら、スプリングハンマーの力で(ダンダンダンと音をたて)薄く延ばして行く、ある程度の形に伸ばしたら、酸化スケールを表面から飛ばすため、水打ちと加熱を繰り返しながら、片手ハンマーを使い金敷の上で叩いて庖丁の表面をきれいにして行きます。

 鉄の表面を平らにし、柄が入る(こみ)の部分を修正し、庖丁の形状に近づけます。その後、歪を取り、荒削りをして、焼き入れ態勢に入ります。

 油焼き入れで、一応の目安として、焼き入れ温度770度、焼き戻し温度170度で熱処理を行い、その後、研磨作業、四工程を経て、初めての黒打ち仕上げの庖丁が完成しました。
 
 今後、焼き入れ温度、焼き戻し温度と時間、磨き仕上げ、さまざまの庖丁の研究課題が待っております。

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