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[No.432] 白系ロシア人 投稿者:   投稿日:2008/03/14(Fri) 22:43
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 初めてこの部屋へ寄せてもらいました。大正6年に起こったロシア革命の結果、多くの白系ロシア人が世界中に分散し、日本にも数多く渡来したようです。

 日本での職業としては、行商が多かったと聞いています。白系ロシア人については、あっしも何度か見たような、微かな記憶があります。大正人のみなさん、見聞談あれば、どうかご披露下さい。


[No.433] Re: 白系ロシア人 投稿者:変蝠林(1917-)   投稿日:2008/03/14(Fri) 23:51
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>  日本での職業としては、行商が多かったと聞いています。白系ロシア人については、あっしも何度か見たような、微かな記憶があります。大正人のみなさん、見聞談あれば、どうかご披露下さい。

日露戦争の捕虜収容所の内、四国の連中が神戸に残って菓子屋を始めた模様。
モロゾフなんか其の内の筈です。


[No.434] Re: 白系ロシア人 投稿者:マーチャン  投稿日:2008/03/15(Sat) 08:11
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> 日露戦争の捕虜収容所の内、四国の連中が神戸に残って菓子屋を始めた模様。
> モロゾフなんか其の内の筈です。

 たしか、音楽家、バレリーナなどにも、多くの白系ロシア人がおられた、そして日本の西洋音楽の発展に大変貢献されたと伺っています。

 エリアナ・パブロワさんという方も鎌倉でバレエを教えておられました。
 今は、公開していませんが七里ガ浜に記念館があります。
 


[No.436] Re: 白系ロシア人 投稿者:   投稿日:2008/03/15(Sat) 14:22
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大正人ではありませんが(^^)、子どものころ(昭和12〜15年ごろ)神戸では
ユダヤ人や白系ロシア人は珍しくなく街中でよく見掛けました。
子供心にもこの人たちは服装や風貌で他の外人さんと見分けがつきました

神戸の洋菓子はモロゾフやゴンチャロフなど革命から逃れて亡命して来た
人たちが創業したものです。

バレンタインデーのチョコレートもこの人たち(の子や孫の世代)が創案
したそうですね


       さんらく亭@甲子園


[No.437] Re: 白系ロシア人 投稿者:変蝠林(1917-)   投稿日:2008/03/15(Sat) 23:22
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>(昭和12〜15年ごろ)神戸では・・・・・

其の頃、三ノ宮神社前のうどん屋で拾五銭位の昼食を摂り、前のパウリスタで
拾銭の珈琲を一服、省線高架下を過ぎトーアロードを昇り山手通りを左折して
外人館の並ぶ小路をパルモア学院まで降って元町駅から鯉川筋を通り大丸前に
戻るのが昼休みの定番コースでした。

坂道の小路で遊ぶ外人の子供達が可愛いかった。    懐かしい思い出です。

                                  変蝠林(1917-)       


[No.435] Re: 白系ロシア人 投稿者:瀬里恵  投稿日:2008/03/15(Sat) 09:04
[関連記事URL:http://homepage2.nifty.com/Avenue-Serie/

 唐辛子 紋次郎さん、変蝠林さん、皆さん、お早う御座います。

瀬里恵が先ず思い浮かべるのは、バレリーナのアンナ パブロワですネ。
彼女はロシア革命でイギリスに亡命した白系ロシア人…。日本にも来日し
公演した事がある。

そして しばらく鎌倉の由比ガ浜沿いに逗留し、バレーを教えたらしい。
貝谷八百子や 谷桃子などはその門下生だとか…

 確か、N-FMELLOWの時代に、カキコしたと思いますが、「瀕死の白鳥」を
踊った時、たまたま六代目・尾上菊五郎が見に来ていて彼女の演技に感動
して、彼女に問いかけた。

「あなたは白鳥が死にかけて倒れた時から、幕が降りるまで息をしていませ
んでしたネ。もしなにかの事故で幕が降りてこなかったらどうしますか?」

アンナ バブロワ曰く、

「その時は、そのまま呼吸をせず死ぬ事になるでしょう」と言ったとか…。

            ああ…瀬里恵 絶句…

     ではまた 何か思い出したら、書きましょうか。


       http://fine.ap.teacup.com/serie-brog/
               瀬里恵


[No.438] Re: 白系ロシア人 投稿者:   投稿日:2008/03/16(Sun) 12:10
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  瀬理恵さん、変蝠林さん、皆さん、こんにちは。
>
> 瀬里恵が先ず思い浮かべるのは、バレリーナのアンナ パブロワですネ。
> 彼女はロシア革命でイギリスに亡命した白系ロシア人…。日本にも来日し
> 公演した事がある。
>
> そして しばらく鎌倉の由比ガ浜沿いに逗留し、バレーを教えたらしい。
> 貝谷八百子や 谷桃子などはその門下生だとか…
 
 江ノ電に乗ったとき、マーチャンからも話を聞いたことがあります。

>  確か、N-FMELLOWの時代に、カキコしたと思いますが、「瀕死の白鳥」を
> 踊った時、たまたま六代目・尾上菊五郎が見に来ていて彼女の演技に感動
> して、彼女に問いかけた。
>
> 「あなたは白鳥が死にかけて倒れた時から、幕が降りるまで息をしていませ
> んでしたネ。もしなにかの事故で幕が降りてこなかったらどうしますか?」
>
> アンナ バブロワ曰く、
>
> 「その時は、そのまま呼吸をせず死ぬ事になるでしょう」と言ったとか…。

 それが本当の芸人魂なんでしょうね。天井が落ちようが暴漢が乱入しようが…。そのとき少しも騒がず、ですか…。(^_-)-☆

 あっしの読んだのでは、白系ロシア人には羅紗売りが多かったということですが、みなさん、その関係のご記憶はありませんか?彼らの働きがなければ、着物文化の日本に、こうも早く背広が普及しなかったんではないか、という指摘があります。

 また、洋菓子、チョレートの話もありますが、ピロシキやボルシチの普及、これには白系ロシア人やその面倒を見た新宿の『中村屋』の存在が大きかったのでは。同店は亡命した盲目の詩人、エロシェンコ(ウクライナ出身)をpatronizeしたことでも知られています。それに、洋画家・中村彝による、この詩人の肖像画も残されています。


[No.439] Re: 白系ロシア人 投稿者:   投稿日:2008/03/16(Sun) 22:42
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唐辛子 紋次郎さん、今晩は。

>  あっしの読んだのでは、白系ロシア人には羅紗売りが多かったということですが、みなさん、その関係のご記憶はありませんか?

私が子供の頃の記憶。
白髭の大男が、黒い羅紗の大きな巻物を包装のせずに肩に担ぎ、歩いているのを草津のような田舎町でも良く見掛けました。昭和12,3年頃まであったと思います。

これが日本の洋服化を早めた?それはちょっと読み過ぎの様な気もしますが。


[No.440] Re: 白系ロシア人 投稿者:   投稿日:2008/03/17(Mon) 00:19
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    不虻 さん、今晩は。早速のコメント、ありがとうございます。

> >  あっしの読んだのでは、白系ロシア人には羅紗売りが多かったということですが、みなさん、その関係のご記憶はありませんか?
>
> 私が子供の頃の記憶。
> 白髭の大男が、黒い羅紗の大きな巻物を包装のせずに肩に担ぎ、歩いているのを草津のような田舎町でも良く見掛けました。昭和12,3年頃まであったと思います。

 羅紗は裸で持ち歩いていたんですか。フランス人もよくパンを裸で持ち歩くといいますね。なんか、連中は日本人に比べて、デリカシーがないというか、ヤバンですね。

 ところで、白系露西亜人というのは、日本の国に少なからず貢献しているようですね。ある研究者によると、宗教関係から、教育、料理、製菓(ゴンチャロフ等)から、音楽(小野アンナ)、舞踊(パブロワ)まで。

 女の人も、羅紗の代わりに化粧品を持ち歩いて、その普及に一役買ったとか。

> これが日本の洋服化を早めた?それはちょっと読み過ぎの様な気もしますが。

  洋服化を早めたというのは、チョッと大げさですかな。(^_-)-☆なあるほど。


[No.441] Re: 白系ロシア人 投稿者:   投稿日:2008/03/17(Mon) 08:16
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唐辛子紋次郎さん  みなさん

>  ところで、白系露西亜人というのは、日本の国に少なからず貢献しているようですね。ある研究者によると、宗教関係から、教育、料理、製菓(ゴンチャロフ等)から、音楽(小野アンナ)、舞踊(パブロワ)まで。

プロ野球のヴィクトル・スタルヒンも。

戦時中は「須田博」と改名させられたそうですが(その当時は知りません)
戦後職業野球が復活してスタルヒンの名で復帰し、昭和21年だったか、
私の疎開先の兵庫県宍粟郡の小さな町に初めてプロ野球の混成チームが
地方巡業でやってきたときのメンバーとしてスタルヒンを見ました

日本人選手に比べて頭2つぐらい背が高くて色白で男前でカッコイイ〜 
と中学生は憧れました


       さんらく亭@甲子園


[No.442] Re: 白系ロシア人 投稿者:   投稿日:2008/03/17(Mon) 10:19
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    さんらく亭@甲子園さん、みなさん、お早うございます。

> プロ野球のヴィクトル・スタルヒンも。

 そうそう、スタルヒンなんてのがいましたね。

> 戦時中は「須田博」と改名させられたそうですが(その当時は知りません)

 しかし、スタルヒンが須田博とは、うまくやった紋ですね。(^_-)-☆

> 戦後職業野球が復活してスタルヒンの名で復帰し、昭和21年だったか、
> 私の疎開先の兵庫県宍粟郡の小さな町に初めてプロ野球の混成チームが
> 地方巡業でやってきたときのメンバーとしてスタルヒンを見ました
>
> 日本人選手に比べて頭2つぐらい背が高くて色白で男前でカッコイイ〜 
> と中学生は憧れました

 そのほかでは相撲の大鵬もロシア渡来でしたね、お母さんがロシア人でしたっけ。