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[No.758] 大正人の責任。 投稿者:   投稿日:2008/10/10(Fri) 13:34
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大正人のみなさま:

此の折角の部屋がやや閑散と見受けられます。
明治の父母や日露戦争の勇士に囲まれて育った所為か
大東亜戦争の惨めな惨敗に変な責任を感じてるのでは?

此処で沈黙して居ては、却って無責任を免れ得ません。
戦後の我武者羅な復興労務の中で得た経験等を是非共。

                   資格無しの   変蝠林(1917-)


[No.759] Re: 大正人の責任。 投稿者:千葉の小猿  投稿日:2008/10/17(Fri) 11:18
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大正期の方々へ レス遅くなりましたが

> 戦後の我武者羅な復興労務の中で得た経験等を是非共。

これはぜひ残していただきたい内容です。
聞いた話ですが「傾斜生産方式」ということで食料とエネルギー(肥料と石炭に)に極めて少ない資源を集中したと聞いています。
私の年代は昭和30年代半ばからですが「傾斜生産」の延長上にあると思います。
敗戦処理からこの時代のことは今後もし同じような危機があっても教訓として重要です。
ぜひお願いします。
千葉の小猿


[No.765] Re: 大正人の責任。 投稿者:不虻  投稿日:2008/10/22(Wed) 11:35
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千葉の小猿さん

 大正期の不虻ですが、レスが遅くなって済みません。
 
 終戦から昭和24,5年までの日本の大問題は、一千万人の餓死者が出るかもと言われた食糧危機問題とややもすれば超インフレに移行するかも知れないインフレ処理の問題並びにエネルギー、原材料不足でにっちもさっちも行かなくなっている鉱工業生産停滞の問題でした。

 こんな状況下で、有澤広巳・東大教授等の提唱したのが「傾斜生産方式」でした。これによりあらゆる物資の割り当てや資金供給などを石炭、鉄鋼、化学肥料に集中しました。

 当時私は商工省に勤務、と言っても新米そのもので何も知りませんでしたが、昭和22年に名古屋商工局に転勤したとき、化学肥料担当を命じられ、四日市に幾つかあった硫安工場に日参し、増産のお手伝いをしたことを微かに覚えています。

 その後、食糧不足はエロア、ガリレオ援助に依る食糧輸入で、インフレは、預金払い出し制限,新円発行、隠匿物資の買い上げ、財産調査、そして所謂ドッジラインにより、生産停滞は傾斜生産方式、最後は昭和25年に勃発した朝鮮戦争の「特需」により解決していき、昭和31年の経済白書で「もはや戦後ではない」と言われたのは御承知の通りです。

 長々と御免なさい。 


[No.766] Re: 大正人の責任。 投稿者:   投稿日:2008/10/22(Wed) 12:08
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不虻さん

>  その後、食糧不足はエロア、ガリレオ援助に依る食糧輸入で、インフレは、預金払い出し制限,新円発行、隠匿物資の買い上げ、財産調査、そして所謂ドッジラインにより、生産停滞は傾斜生産方式、最後は昭和25年に勃発した朝鮮戦争の「特需」により解決していき、昭和31年の経済白書で「もはや戦後ではない」と言われたのは御承知の通りです。

 貴重なお話、ありがとうございました。

 私など、当時まだ小学生で詳しい事情は何もわかりませんでした。
 ただ、小学生も「エロア、ガリレオ」「ララ物資」などという言葉だけは存じています。

 エロア、ガリレオ援助は、有料だったのでしょうか。
 後にアメリカに返済したという話も聞きましたが、その辺が良くわかりません。

 日系人の方のご協力があっていただけたのに、それは公表されていなかったという話も聞きましたが本当だったのでしょうか。

 戦争中の話は分からないことばかりですが、占領下での出来事にも「よく分からないこと」が多いですね。




 
 


[No.768] Re: 大正人の責任。 投稿者:Pan  投稿日:2008/10/22(Wed) 17:15
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マーチャン、みなさん、こんにちは。

> ただ、小学生も「エロア、ガリレオ」「ララ物資」などという言葉だけは存じています。

 ガリオア[GARIOA]資金(援助)の事だったと思います。

 『ララ物資』の再縫製に戦争未亡人を雇用する事業を立ち上げた人がありましたが、最初から計画的だった政治家がらみの詐欺師に酷い目に遭いました。

 もう少しその人から具体的な経緯を聞きたかったのですが、亡くなってしまわれました。

 何かお金や物が纏まって動くと、必ずそこには黒い物が動きますね。


         ***** Pan *****


[No.769] Re: 大正人の責任。 投稿者:不虻  投稿日:2008/10/22(Wed) 23:54
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マーチャン、Panさん、みなさん   こんばんは。

 「ガリレオ」はPanさんの言われるとおり「ガリオア」の間違いでした。つい書き違えました。申し訳ありませんでした。

 このような資金援助は20億ドルに達したそうですが、これが無かったら、都市生活者の飢餓や鉱工業の再建など出来なかったと思います。

 昭和24年GHQの指示の依って、これら援助資金は日本円に換算され、「対日援助見返り資金」として積み立てられ、復興金融金庫を通じて重要産業の復興資金に貸し付けられました。これらは後に開発銀行融資になりました。

 またこれらの援助資金が日本の対米債務か、贈与かは随分問題になったようですが結局一部を返済することとなり5億ドルほど返済したとのことです。

>  何かお金や物が纏まって動くと、必ずそこには黒い物が動きますね。

 そうですね。重要産業の一つであった化学肥料工業も政府育成の効果有り、昭和24年には早くも戦前水準に回復しましたが、反面有名な「昭電事件」を生み出しました。


[No.770] Re: 大正人の責任。 投稿者:   投稿日:2008/10/23(Thu) 07:24
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 みなさん  

>  そうですね。重要産業の一つであった化学肥料工業も政府育成の効果有り、昭和24年には早くも戦前水準に回復しましたが、反面有名な「昭電事件」を生み出しました。

 詰まらぬ事を思い出しました。
 あの頃、名古屋から東海道線夜行で浜松町下車、大門前の角に在った昭和電工を
 訪れました。

 其の折に、先方社員に鶯谷辺りの赤線宿に連れ込まれ苦しい一夜を過ごしました。
 何の用件だったか記憶せぬのに、嫌な一夜を未だに思い出す変な変な時代でした。

                                        変蝠林(1917-)


[No.767] Re: 大正人の責任。 投稿者:   投稿日:2008/10/22(Wed) 12:29
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不虻さん

>  当時私は商工省に勤務、と言っても新米そのもので何も知りませんでしたが、昭和22年に名古屋商工局に転勤したとき、化学肥料担当を命じられ、四日市に幾つかあった硫安工場に日参し、増産のお手伝いをしたことを微かに覚えています。

私が名古屋支店に転勤したのは昭和23年10月でしたが当初は繊維課所属。
後、食料課、燃料課兼務に転属させられ当時未だ沖取りだった名古屋港には
伊勢湾海運を使って良く通いました。石炭課長を兼務した頃には四日市にも
社用車で化学工場訪問が増えました。

エロア、ガリレオ援助に依る食糧輸入ではマイロ等陸揚げで中川に大分零し
泥川にした責任有りです。兎に角夢中の時代でしたね。

                                    変蝠林(1917-)


[No.772] Re: 大正人の責任。 投稿者:不虻  投稿日:2008/10/23(Thu) 14:24
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変蝠林さん

 私は名古屋に22年から24年2月までいました。3ヶ月ほどは同じ時期に
名古屋にいたのですね。

 私はその間に名古屋の女性と結婚し、長男が生まれました。22年に赴任したときは
商工局の寮に居住していましたが、朝食は甘藷でした、そんな時代でしたね。

 石炭課長もして居られた由。局でも割り当て以上の石炭入手を目論み、管内で生産された日用品をかき集め、それを九州の炭坑に送って、見返りに石炭を管内に送って貰うようなこともやっていました。何か御縁があったかも知れませんね。

 当時の名古屋も焼け野原。兎も角大変な、しかし今になれば懐かしい時代でした。




[No.773] Re: 大正人の責任。 投稿者:   投稿日:2008/10/23(Thu) 15:28
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不虻さん

>  私は名古屋に22年から24年2月までいました。3ヶ月ほどは同じ時期に
> 名古屋にいたのですね。

当初は繊維部でしたから所謂ガチャ万時代、転任早々から丸善地下のキャバレイ
に連日のアフターファブでした。

>  私はその間に名古屋の女性と結婚し、長男が生まれました。22年に赴任したときは
> 商工局の寮に居住していましたが、朝食は甘藷でした、そんな時代でしたね。

私の寮は新出来町でしたが偶然にも県営住宅に当選、小桜町の二室美宅に・・・・
名古屋の結婚は嫁入り道具数車と聞いて、長女の成長を心配してたのですが・・・

>  石炭課長もして居られた由。局でも割り当て以上の石炭入手を目論み、管内で生産された日用品をかき集め、それを九州の炭坑に送って、見返りに石炭を管内に送って貰うようなこともやっていました。何か御縁があったかも知れませんね。

 米国よりの石油コークスが主体で東邦瓦斯、揖斐川電工に良く通いました。
 城内の関係官庁は食料庁で三井三菱等と談合宴会の多い時期でありました。

 時効とは居え変な方向に進まぬように此の辺りで。

                               変蝠林(1917-)



[No.771] Re: 大正人の責任。 投稿者:千葉の小猿  投稿日:2008/10/23(Thu) 11:38
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不虻さん 貴重なお話有難うございます。
>
>  こんな状況下で、有澤広巳・東大教授等の提唱したのが「傾斜生産方式」でした。これによりあらゆる物資の割り当てや資金供給などを石炭、鉄鋼、化学肥料に集中しました。
>
この頃私は国民学校から新制中学でした。社会人になって先輩達からこの頃の話を聞きました。大正生まれの方がこの頃を仕切っていたはずです。私の感じですがこのころの動きが日本の経済復興の原点と思っています。大正生まれの方に経済復興の原点の記述を何らかの形で残していただきたいと願っています。
賠償指定物資の稼動(戦艦大和主砲加工機械を使った発電機主軸の生産など)も判ればぜひお願いします。

>  長々と御免なさい。 
決して長いとは思いません。朝鮮動乱ブームもこの時期の活動がなければ乗れなかったと信じています。
千葉の小猿


[No.760] Re: 大正人の責任。 投稿者:不虻  投稿日:2008/10/19(Sun) 18:11
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変蝠林さん  御無沙汰しています。

> 此処で沈黙して居ては、却って無責任を免れ得ません。

 貴兄に次ぐような大正人でありながら、なかなか書き込みも出来ず、
申し訳ありません。
 仰るとおり、終戦直後の東京の凄まじい生活など、もう今の若い人には
想像もつかないでしょう。

 私は昭和20年9月20日に復員、暫く郷里で呆然と日を送っていまし
たが、12月に虎ノ門にある勤め先に復帰しました。目黒区月光町で焼け
残った友人の家に泊めて貰い、そこから通いました。

 先ずは乗り物。窓硝子が割れてしまって寒風が容赦なく吹き込む省線
(今のJAのこと)で目黒から新橋までぎゅうぎゅう詰めで。

 新橋駅周辺は食べ物屋の闇市。烏賊の丸煮などぷんぷん良い臭いを
させているが、一匹十円、またラッキーストライクやキャメルなどの
アメリカ煙草が一個30円、しかし月給150円ではとても手が出ない。

 毎晩、勤めから戻ると、先ず虱取り。下着から4匹見つけ出して
ゾッとする。

 渋谷駅など、浮浪の戦災孤児が倒れている。物憂げに身体のどの部分も
動かさず、ただ空虚な瞳がじっと地面を見つめている。

 電車、街、勤め先、凡てが阿鼻叫喚である。怒声、悲鳴、叫喚、耳に
入って来るのは惟。倦怠、不潔、社会の不公平、雑踏、怒気、焦燥、卑屈
不倫、怠惰…………目に入り、身に感ずるこれであった。

そして遂に私は疥癬に罹り、空しく郷里へ帰りました。


[No.761] Re: 大正人の責任。 投稿者:   投稿日:2008/10/20(Mon) 06:44
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不虻さん 此方こそ御無沙汰お詫びせねば。

>  私は昭和20年9月20日に復員、暫く郷里で呆然と日を送っていまし
> たが、12月に虎ノ門にある勤め先に復帰しました。目黒区月光町で焼け
> 残った友人の家に泊めて貰い、そこから通いました。

私の復員は昭和21年3月27日でしたが幸い家族も全員無事で静岡駅まで
出迎えて貰えました。不思議な幸運は続きまして殆どの退役社員が宿舎無き
為に馘首だった時代、設立直後の静岡支店に復職出来ました。

当時の収入、東芝オアシスに残って居た記録参考に下記致しませう。

        題名:昭和21年8月分給料明細書。

  給料         ¥130.00
  家族手当       ¥100.00
  居残早出手当     ¥ 44.00
  臨時物価手当     ¥520.00
  皆勤賞        ¥ 20.00
  食事手当       ¥110.00
  休日出勤手当     ¥  0.00
  交通費補助      ¥ 20.00
  合計         ¥944.00
 *差引額
  分類所得税      ¥116.63
 *差引支給額
  現金         ¥500.00
  封鎖小切手      ¥327.37

 此の年大阪出張の砌、純綿白ソックス一足¥500.00で買い求めました。
 誠に不思議な時代でした。 

 御同役感慨や如何。                  変蝠林(T/06) 。