若ものに読んでほしい「この一冊」
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[No.64] Re: バルムの僧院 投稿者:   投稿日:2010/04/29(Thu) 18:33
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唐辛子 紋次郎さん  こんばんは

> 「パルムの僧院」というから分かりにくい。今なら「パルマの修道院」とか云った方が分かりがいいのでは?

本を借りてきました。
La Chartreuse de Parme
生島遼一が解説の中で述べています。
主人公が囚われた塔の牢の窓から眺める雪につつまれた美しい山脈は
この町ではなく、作者の愛したミラノでの風景だった。
この小説の大部分の舞台となったファルネーゼ塔はこの町には存在せず
作者がローマのサンタンジェロ城塞のかたちを心に描きつつ
小説の中に象徴的に転置したものである。

旅名人ブックス57 ポローニャ/パルマ/ポー川流域 日経BP社
これも借りてきました。
パルマ 日本人にも馴染みの深い芸術と音楽の古都
1545年 ファルネーゼ家出身の教皇パウルス三世は息子にパルマの領地を与えた。その後、パルマ公国が誕生した。
パウルス三世については「ファルネーゼ家興隆の起源」という古い本に書かれている。
青年時代はかなりの放蕩者であった。それがローマ法王にまでなった。
ちなみに、ミケランジェロにシスティーナ礼拝堂の「最後の審判」を依頼したのは、このパウルス三世であった。
時代は下り、この本に興味を持ったイタリア通のフランス人がいた。スタンダールである。
彼はこの本の内容に影響を受け、1839年のイタリアの政治状況を風刺するかのような小説を52日間で書き上げた。それが「パルムの僧院」であった。

1731年 ファルネーゼ家の後継者が絶えた。
その後、最終的にスペイン王子のブルボン家フィリッポに公国が与えられた。
だが、19世紀の一時期だけ、マリー・ルイーズが統治した。
彼女は神聖ローマ帝国の最後の皇帝フランツ二世の長女であり、フランス皇帝ナポレオンの二番目の妻であった。
(ナポレオンが離婚した最初の妻ジョゼフィーヌについては後で書くかもしれません)
ナポレオンが失脚してから、彼女はシェーブルン宮殿に戻り、二度とナポレオンに会うことはなかった。
ナポレオン後のヨーロッパではウィーン会議が開かれ、この関でパルマ公国はマリー・ルイーズに与えることが決まった。
彼女は寛大だったので、パルマの人々は親しみを持ったという。彼女の統治は30年あまり続いた。
人々は後々まで「愛される皇妃」として、マリー・ルイーズを語り継いだ。
彼女は新しい王立劇場も建設した。それが現在のレージョ劇場である。


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