メロウ倶楽部の会員は日本全国で様々な体験をしてきました。
この機会に、「あなたの戦後は?」を色々書いてみてください。
メロウ倶楽部の会員以外の方からの書き込みも歓迎します。
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[No.101]
通信簿
投稿者:
投稿日:2010/12/07(Tue) 21:50
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[No.100]
Re: アンクルトリス
投稿者:
投稿日:2010/12/07(Tue) 21:42
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さんらく亭さん、こんばんは。
夜しか現れない私、やっぱ組長ですかね?
> わたしの古巣でも昭和31年までは職階制度というのがあって社員を
> 職員(ホワイトカラー)と工員(ブルーカラー)に別けて人事管理
> を行っていました
> 工員は新人から年功を積んでいくと 伍長→班長→組長と昇進しても
> そこで行き止まり。その上の主任は職員が就いていました
そんなことになっていたんですか。私がいた会社ではテープレコーダー
などの組立てをやっていたので、そのラインの指導をする人を組長と
したのでしょうね。
私は資材関係でしたが、同じ組長と名づけて、手当を支給されたのです。
>
> その後この制度が撤廃され職・工の区別(差別)がなくなりました。
>
> 戦後の労働運動の中での大きい出来事でした
いろいろあって、世の中変わってきたのですね。
[No.99]
Re: アンクルトリス
投稿者:
投稿日:2010/12/07(Tue) 21:37
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> 組長のあやさん こんにちは
組長なんておかしいでしょ!
SONYのテープレコーダーなどを作っていた会社でした。
製造が主なことから、女性のちょっと上の人を組長なんてことで
手当を出していたのでしょう。
もちろん「組長」なんて呼ぶことはなかったです。
> クレヨンしんちゃんの幼稚園の「ひまわり組」のようなもの?
>
うーん、クレヨンしんちゃんなんて見たことない、知りませんーン。
> 話は変わりますが
> 黒部の太陽の映画にも出てくる
> あのダムの建設に従事した某建設会社にかつていたことのある先生の話
> 京都の大学を卒業して、その某建設に就職したら
> 「準組員を命ずる」という辞令をもらったそうです。
> 半年後に
> 「組員を命ずる」という辞令で正式組員になったとか。
そうでしたか。面白いですね。
ダムと言えば、私が小学生の頃なりたかったものに、
学校の先生と、
ダムの建設工事場の監督でした。上下揃った制服に憧れたのです。
おかしいでしょ。
[No.98]
Re: 実用英会話
投稿者:
投稿日:2010/12/07(Tue) 21:35
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> 敗戦当時は兵庫県揖保郡龍野町(現、たつの市)にある県立龍野中学校1年生でした。
> 放課後で生徒は下校中で校門前に進駐軍のGIの乗ったジープが停まっていて我々に愛想よく声を掛けました。何を言ってるのか分かりませんが親しそうな気持ちは伝わります。つい2〜3ヶ月前まで鬼畜米英撃滅とか撃ちてし止まんと叫んで憎んでいた相手とはとても信じられない印象を受けました
> 生徒の誰かがギブミーチョコレート!と声をかけたら若いGIがポイ〜と抛り投げたのが(あとで知ったのですが)ハーシーの板チョコでした。別の生徒がギブミーチューインガムと言ったら抛ってきたのが(これも後で知った)リグリーのガムでした。兎に角甘いものに飢えていた我々はジープの周りを取り囲んで口々にギブミー***と叫んで大騒ぎです
そういう話を聞くたび、あっしは羨ましく思います。どういうわけか、あっしには進駐軍の思い出がひとつもありません。(-_-;)
さんらく亭さんのように、GIと出会っていればもう少し、英語が上手くなっていたかも。
> 英語を勉強せんならん! と思ったキッカケがこれです(;_;)
> 英語の教科書の1ページ目は This is a pen でしたがこれではアカンと、ラジオの平川唯一のカムカムエブリバディや旺文社の日米会話手帳で一生懸命に生きた英語をマスターしょうと勉強したものです
>
> その後はだんだん「もはや戦後ではない」といわれる頃になり甘い物も手に入るようになったら英会話の勉強も疎かになり全然進歩なく、その後60年こんにちに至ります(;_;)
ベストセラーの代名詞のような「日米会話手帳」ですが、読んだ記憶がありません。
あっしのばやい、東京から兵庫へ疎開したら、英語は純日本式の発音をする先生が担任でした。あっしは英語は一応好きな科目でしたので、チョッとがっかりしました。東京では東京外語(東京外国語大学)出の、英国式の発音のいい先生に習っていたので、あっしの英語はそこでストップしました。
その後、神戸か大阪から、磯尾先生が転任されました。この方は外国の大学(シラキュース大学?)に留学されていたので、発音も含めすべてが素晴らしかったです。後で知ったのですが、英語の参考書の著書もニ三、あったようです。
恥を晒すようですが、大分後になってからハワイ出身の鬼頭イツ子先生にも一度短期間ですが、習ったこともあります。
それでも駄目、なおも英語漂流はつづきましたが、結局諦めました。
[No.97]
Re: 宇宙戦艦ヤマト
投稿者:男爵
投稿日:2010/12/07(Tue) 21:14
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[No.96]
宇宙戦艦ヤマト
投稿者:男爵
投稿日:2010/12/07(Tue) 20:59
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画像サイズ: 743×536 (95kB)瀬里恵さん こんばんは
金沢の全国オフの帰りには
敦賀で途中下車して
「宇宙戦艦ヤマト」と「銀河鉄道999」の
モニュメントを見てきました。
[No.95]
Re: 実用英会話
投稿者:男爵
投稿日:2010/12/07(Tue) 19:25
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さんらく亭さん こんばんは
> 英語の教科書の1ページ目は This is a pen でしたがこれではアカンと、ラジオの平川唯一のカムカムエブリバディや旺文社の日米会話手帳で一生懸命に生きた英語をマスターしょうと勉強したものです
平川唯一は
玉音放送を英訳し、国際放送でこれを朗読したアナウンサーだそうですね。
カムカム英語は「証城寺の狸囃し」のメロディーなので
中山晋平作曲でしたね。
[No.94]
実用英会話
投稿者:
投稿日:2010/12/07(Tue) 18:41
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敗戦当時は兵庫県揖保郡龍野町(現、たつの市)にある県立龍野中学校1年生でした。
あるとき姫路に駐屯している進駐軍が町にジープ数台で中学校にやってきて将校らしい偉そうなのが校長室へ入って何やら会談をしているという噂が広まりました
放課後で生徒は下校中で校門前に進駐軍のGIの乗ったジープが停まっていて我々に愛想よく声を掛けました。何を言ってるのか分かりませんが親しそうな気持ちは伝わります。つい2〜3ヶ月前まで鬼畜米英撃滅とか撃ちてし止まんと叫んで憎んでいた相手とはとても信じられない印象を受けました
生徒の誰かがギブミーチョコレート!と声をかけたら若いGIがポイ〜と抛り投げたのが(あとで知ったのですが)ハーシーの板チョコでした。別の生徒がギブミーチューインガムと言ったら抛ってきたのが(これも後で知った)リグリーのガムでした。兎に角甘いものに飢えていた我々はジープの周りを取り囲んで口々にギブミー***と叫んで大騒ぎです
日本男児として恥ずかしい!と思う余裕もなくただ甘いものが欲しい本能です。後年になって、情けないことをしたもんだと反省しても遅かりし由良助ですね
英語を勉強せんならん! と思ったキッカケがこれです(;_;)
英語の教科書の1ページ目は This is a pen でしたがこれではアカンと、ラジオの平川唯一のカムカムエブリバディや旺文社の日米会話手帳で一生懸命に生きた英語をマスターしょうと勉強したものです
その後はだんだん「もはや戦後ではない」といわれる頃になり甘い物も手に入るようになったら英会話の勉強も疎かになり全然進歩なく、その後60年こんにちに至ります(;_;)
さんらく亭@甲子園
[No.93]
Re: 振りかけられたDDT
投稿者:
投稿日:2010/12/07(Tue) 16:16
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BUPさん こんにちは
> 快適でした、以後、蚤に刺されなくなりました。
やはり日本国民全部がDDTをふりかけられたんですね。
蚤と虱にとっては地獄が始まった。
[No.92]
Re: 振りかけられたDDT
投稿者:BUP
投稿日:2010/12/07(Tue) 13:45
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”昭和21年7月5日名古屋上陸、復員船 V-040”
こんなつまんないことは覚えている半ボケですが。
上陸と同時に”DDT"を頭から吹き付けられました、持ち物(毛布1枚とフンドシ数枚)にも。
数日後、無事に帰宅、夜、寝床に就くと、蚤に刺されて痒くて、痒くて・・・。
ふと、気が付いて、DDTを吹き付けられた、毛布を敷いて寝たんです。
快適でした、以後、蚤に刺されなくなりました。
変なこと、思い出したなぁ〜・・・。
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