あなたの戦後は? 
(期間:2010.12.1 - 2011.1.31)

メロウ倶楽部の会員は日本全国で様々な体験をしてきました。
この機会に、「あなたの戦後は?」を色々書いてみてください。

メロウ倶楽部の会員以外の方からの書き込みも歓迎します。


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  • [No.21] Re: 修学旅行の思い出 投稿者:   投稿日:2010/12/02(Thu) 09:02
    [関連記事URL:http://fine.ap.teacup.com/serie-brog/

    あやさん、レス有難う御座います。


    > > 昭和20年8月15日、日本が戦争に敗れ、勤労動員で工場に勤務して
    > > いた私たちは、その翌日から学園に復帰した。
    >
    > もうこのころ働いていらしたのですか。尊敬です。

    これは工場で働いていた健康な方々が殆ど軍隊に行かされ従業員が不足し
    その穴埋めとして、国家総動員令という法令が施行され、無職者や学生が
    学業を中止して工場で働かされていたのです。

    > 戦争が終わって翌年というのに、修学旅行ができたのですね。

    1泊2日、交通機関も復旧していなくて、大分から別府まで小雨降る中を
    別府まで歩きました(涙)
    > > とその時、ブスッと言う音とともに私の脇腹を20センチメートル程逸れて
    > > 1尺5寸ほどのドスが突き刺されたのである。一瞬学友三人の顔が凍りつく。

    > ずいぶんと怖いことでしたね。

    私は「なんじゃこりゃ」と思っただけで怖い思いはしませんでした。
    当時、村八分だった我が家は時々村人と抗争があり、伯父が伝家の長船を
    抜き放って切り込んだり、お花見の季節にはヤクザがドスを抜き放って対峙
    したりという修羅場を子供の頃から見てきましたから…。

    > お気をつけて! 振り回しませんようにね! 振り回されませんようにね!

    ご心配有難う。何もスポーツをしない私は、一つぐらいは何かやらねばと
    居合道をやっていましたから、足の達者な間はいつも振り回していました。
    今でも座位で真剣の素振りを時々やっていますよ。
    ちっとも危険なことはありません。ご安心召され。ワハハハハ


                    瀬里恵


    [No.20] Re: 修学旅行の思い出 投稿者:   投稿日:2010/12/02(Thu) 08:31
    [関連記事URL:http://fine.ap.teacup.com/serie-brog/


    画像サイズ: 306×142 (8kB)
    男爵さん…コメント有難う御座います。

    > > 今、私は2振りの日本刀を所持している。
    >
    > 博物館のガラスの向こうに展示されている刀と
    > 実際に座敷で振りまわされる日本刀の間には
    > 大きな落差を感じます。

    日本刀への認識は現代日本では大変に誤解されています。
    日本刀は世界中て日本人のみが作り得た美術工芸品です。
    つまり美術工芸品と言う「物」であって「物」に罪はありません。
    日本刀を所持する人自身が「凶器」であるか、「美術愛好家」
    であるかによると思います。

    日本刀の登録先は警察ではなく、都道府県の文化庁である事に
    よっても理解戴けると思います。

    ちなみに私の愛刀は「岩切海部」の系譜の一人「海部氏吉」
    二尺二寸と、現代刀「肥前住保則」二尺三寸五分です。
    ほかに居合い練習のため自作の模擬刀も二本あります。

    男爵さんも日本刀一振所持されませんか(笑)


               瀬里恵


    [No.19] Re: 行商。 投稿者:男爵  投稿日:2010/12/02(Thu) 06:15
    [関連記事

    >  S、22年新制中学1年の時、福岡県城島町に住んでいた叔母の所は和傘の産地でした(醸造蔵元の町でもありました)ので番傘や日傘、蛇の目傘等を安く仕入れて其れを田舎の農家に売り歩かされました。

    >  全部売れる日もあれば、半分の本数がヤットと言う日もあり田舎の砂利道を一日歩き通しで、今思い出しても可也キツイ仕事でした。
    > こんな訳で、学校もチョクチョク休んでいました。

    働き者でしたね。

    >   稼げども、かせげども我が暮し・・・の心境でした。

    大変でしたね。
    和傘も日常ではもう見ることはなくなりましたね。


    [No.18] Re: 黎明期の「テレビドラマ」 投稿者:男爵  投稿日:2010/12/02(Thu) 06:10
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    > 若者3人姉弟が外へ遊びに出て、お金を使ったり、悪いこと? でもしないかと
    > 心配してくれたのです。うれしかったですね。
    > そんなことで、ずいぶん若いときからテレビに馴染んでいました。

    当時は大変貴重なテレビでした。

    > 社長が買ってくださったテレビですが、遊び歩いていてあまり見ない
    > 不良娘だったんです。

    外に出るのが好きだったんですね。


    [No.17] Re: 戦後の日本/私の場合 投稿者:男爵  投稿日:2010/12/02(Thu) 06:07
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    > 食券・・・中学生の頃までお世話になりました。食券1枚と8円で、大きなコッペパンが
    > 買えました。成長期の空腹に、これは贅沢な間食でした。

    食券でコッペパンを買うのは
    昭さんも書かれていますね。
    コッペパンは
    いまのコッペパンと同じものでしょうか。


    [No.16] Re: 食糧難。 投稿者:男爵  投稿日:2010/12/02(Thu) 06:03
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    >  終戦直後は誰もが経験した事でしょうが、食べ物が無くヒモシイ思いをされられました。
    > 配給制で、主食の米の変わりにバターや、粉ミルクの配給、は良いほうで大豆粕(大豆を押し麦状に押しつぶした物)迄配給の対象で、食べられなくて田舎(農家)に行き僅かばかりの米と交換して貰ったりで大変でした、里山にツワ取りに出かけ、これが主食になったりもありました。

    昭さん こんにちは

    ツワ取りのツワとは、どんなものでしょうか。
                      


    [No.15] 行商。 投稿者:  投稿日:2010/12/01(Wed) 23:00
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     S、22年新制中学1年の時、福岡県城島町に住んでいた叔母の所は和傘の産地でした(醸造蔵元の町でもありました)ので番傘や日傘、蛇の目傘等を安く仕入れて其れを田舎の農家に売り歩かされました。

     和傘は、竹と分厚い和紙を使用していましたので6本前後背負うと可也の重さでした。其れを朝から、夕刻遅くまで売り歩いたものです。
    何せ全部売れる迄家に帰るなと言われていたので大変でした。

     全部売れる日もあれば、半分の本数がヤットと言う日もあり田舎の砂利道を一日歩き通しで、今思い出しても可也キツイ仕事でした。
    こんな訳で、学校もチョクチョク休んでいました。

      稼げども、かせげども我が暮し・・・の心境でした。



                                   〜〜 昭 〜〜


    [No.14] Re: 修学旅行の思い出 投稿者:   投稿日:2010/12/01(Wed) 22:27
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    > 昭和20年8月15日、日本が戦争に敗れ、勤労動員で工場に勤務して
    > いた私たちは、その翌日から学園に復帰した。

    もうこのころ働いていらしたのですか。尊敬です。

    > 昭和21年秋、翌年の卒業を控え、修学旅行に行った。行く先は別府…。
    > 戦災と資材不足で交通機関は最悪、いろいろ難行苦行はあったが長くなる
    > のでそれは割愛しよう。

    戦争が終わって翌年というのに、修学旅行ができたのですね。
    この数年あとでしょうか? 私が通っていた東京の小学校の修学旅行は京都、
    奈良の3泊4日でした。

    >
    > 四人一部屋で 私たちは部屋に入ると早速車座になって雑談を始めた。私は
    > 入り口ふすまの脇の柱に背を凭れ、腕組みをして学友の話に耳を傾けていた。
    >
    > とその時、ブスッと言う音とともに私の脇腹を20センチメートル程逸れて
    > 1尺5寸ほどのドスが突き刺されたのである。一瞬学友三人の顔が凍りつく。
    >

    ずいぶんと怖いことでしたね。

    私たちの泊まった部屋は、クラス全員が寝られたのではないかという
    広い部屋でした。男子も女子も一緒でしたよ。
    みんなで布団を投げ合って、暴れまくって、布団が破れてしまって、
    翌日に先生からお小言でした。よき懐かしい戦後ではありました。

    >
    > 今、私は2振りの日本刀を所持している。
    >

    お気をつけて! 振り回しませんようにね! 振り回されませんようにね!


    [No.13] Re: 黎明期の「テレビドラマ」 投稿者:   投稿日:2010/12/01(Wed) 22:16
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    > 私の家は貧しかったので
    > テレビはなかなか買えませんでした。

    私の家も同様でした。なにしろ弟2人との暮らしでした。上の弟が会社へ
    入社して、その社宅に住まわせてもらったのです。

    そして、そのテレビですが、会社の社長が、
    「テレビがあれば外へ遊びに行かなくても済むだろう」
    ということで、秋葉原から買ってきてくれたのです。
    社宅に住む人たちにも買ったらしいです。代金は給料から毎月引かれたとの
    ことでしたが、私たちはそれがなく、社長のプレゼントとなったのです。
    若者3人姉弟が外へ遊びに出て、お金を使ったり、悪いこと? でもしないかと
    心配してくれたのです。うれしかったですね。
    そんなことで、ずいぶん若いときからテレビに馴染んでいました。

    > 町では
    > 電気屋さんの前の高いところに置かれた街頭テレビで
    > 力道山がスターでしたね。

    私がアルバイトをしていた喫茶店では大変でした。
    店へ入らないで、ガラス越しに人だかりができたのです。

    >
    > >  忘れられないのが「バス通り裏」と「事件記者」でした。
    > >
    > >  「バス通り裏」は、軽快なテーマソングではじまり
    > >  「等身大」(よりは少しいい暮らし)の市民の日常が描かれていました。
    >

    「事件記者」はなんとなく見たように思いますが、「バス通り裏」は
    見ませんでした。
    社長が買ってくださったテレビですが、遊び歩いていてあまり見ない
    不良娘だったんです。


    [No.12] Re: 戦後の日本/私の場合 投稿者:Kenza  投稿日:2010/12/01(Wed) 21:28
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    > 食券という言葉も知っています。(あまり見た記憶はありませんが)

    食券・・・中学生の頃までお世話になりました。食券1枚と8円で、大きなコッペパンが
    買えました。成長期の空腹に、これは贅沢な間食でした。


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