メロウ倶楽部の会員は日本全国で様々な体験をしてきました。
この機会に、「あなたの戦後は?」を色々書いてみてください。
メロウ倶楽部の会員以外の方からの書き込みも歓迎します。
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[No.11]
食糧難。
投稿者:昭
投稿日:2010/12/01(Wed) 21:28
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終戦直後は誰もが経験した事でしょうが、食べ物が無くヒモシイ思いをされられました。
配給制で、主食の米の変わりにバターや、粉ミルクの配給、は良いほうで大豆粕(大豆を押し麦状に押しつぶした物)迄配給の対象で、食べられなくて田舎(農家)に行き僅かばかりの米と交換して貰ったりで大変でした、里山にツワ取りに出かけ、これが主食になったりもありました。
22、3年頃からだったと思いますが、少しましになりコッペパンの配給券が届くようになりましたが、此れも金が無くては購入できず、人によっては此の券を売って別のものを購入されていた方も可也居られたようです。
〜〜 昭 〜〜
[No.10]
Re: 藷を担いで
投稿者:
投稿日:2010/12/01(Wed) 20:09
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紫竹のさん、 みなさん こんにちは
> とにかく、今の通勤電車のように混んだ列車で、名古屋から中央本線で勝沼へ行きました。
今でも中央線の旅は旅らしいので、当時ならそうとう時間がかかったことでしょう。
> この辺りの駅は、たいがい、スイッチバックになっています。今は、スイッチバックなど、箱根登山電車くらいしか経験できないでしょうね。そのスイッチバックの駅の一つにに入った時、電気機関車の運転手が降りて来て、ブレーキが効きにくい、どれかおかしい客車がある、と点検を始めました。
スイッチバックは盛岡宮古間の山田線にあります。
長野から松本に行く姨捨もスイッチバックになっています。
> 運転しているだけで、ブレーキの効きの不具合を感じとったり、その原因を調べて見つけてくれて直した運転手の技量と技術に感心するやら、感謝するやらでした。
やはり技術者ですね。
> 新宿について、伯父の住んでいる、と言っても、家は焼けてなく、近所の焼け残ったお蔵に仮住まいしているところへ向かいましたが、どうやって行ったのか。今はもう、断片的にしか思い出せません。
いまの新宿の風景とは全然違ったことでしょう。
[No.9]
Re: 修学旅行の思い出
投稿者:
投稿日:2010/12/01(Wed) 20:02
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> 物資欠乏で教科書もノートもなく、豊かな今の日本人には想像も付かない
> 不自由な学園生活であった。基本道徳が百八十度引っくり返り、信ずるも
> のを無くした予科練帰りの若者が首に真っ白な落下傘用の絹布を巻きつけ
> ドスを懐に呑んで、ヤクザそこのけの我が物顔でのし歩いていた。
当時はみんな
価値観や世界観のひっくりかえった思いだったのでしょう。
> とその時、ブスッと言う音とともに私の脇腹を20センチメートル程逸れて
> 1尺5寸ほどのドスが突き刺されたのである。一瞬学友三人の顔が凍りつく。
鶴田浩二か高倉健の映画みたいですが
瀬里恵さんのお話には驚くばかりです。
> 今、私は2振りの日本刀を所持している。
博物館のガラスの向こうに展示されている刀と
実際に座敷で振りまわされる日本刀の間には
大きな落差を感じます。
[No.8]
藷を担いで
投稿者:
投稿日:2010/12/01(Wed) 13:15
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みなさん こんにちは
皆さんもいろいろな戦後をご経験でしょう。私もそれなりの戦後を経験しました。その一つ。
昭和20年9月(だったと思います)に、焼けてはいないけど食糧の少ない京都から、祖母が疎開している、そして、祖母の故郷である勝沼村に呼んでくれました。極めて手に入りにくい切符をどうして手に入れたか忘れましたが、とにかく手に入れ、列車に乗りました。母が、なけなしの米を使って焼きおにぎりを作ってくれたのは覚えています。
とにかく、今の通勤電車のように混んだ列車で、名古屋から中央本線で勝沼へ行きました。
一週間くらいいたでしょうか、そのあと、貰った藷(サツマイモ)をリュックいっぱいに詰めて、焼け野が原の東京(の伯父の家)に向かいました。
その時の切符の入手も大変でした。なんだか、役場の人に頼んで手に入れたように覚えています。
重いリュックを背負って駅まで歩きました。ご存知の方もあるかと思いますが、勝沼(今は、勝沼ぶどう郷)の駅は、村から登り坂をかなりの距離歩かねば到達しません。おなかぺこぺこ、下痢気味の体でよく歩いたものと、今更感心しています。
勝沼、初鹿野(今は甲斐大和という変な名前の駅)、笹子、初狩、、、、と東京方面に行くのです。ところが、笹子に着いたら列車が動かない。なんでも、先行の貨物列車が脱線したとか。これは困った。一体どうなるのだろう。
しばらくすると、結局、次の駅まで歩くと言うことになりました。下りではあるのですが、今見ると直線距離で5kmくらいありますね。この距離を、みんな重いリュックを背負ったり、風呂敷包みを持ったりして歩いたのです。うまい具合に、初狩駅には列車がいました。我先にと飛びついて乗った列車の席はちょっと良い席。何かと思えば、戦災で客車が少なくなっているので二等車を三等代用としていたのに当たったのでした。これは楽チンと思いました。クッションもいいし、ね。
この辺りの駅は、たいがい、スイッチバックになっています。今は、スイッチバックなど、箱根登山電車くらいしか経験できないでしょうね。そのスイッチバックの駅の一つにに入った時、電気機関車の運転手が降りて来て、ブレーキが効きにくい、どれかおかしい客車がある、と点検を始めました。そして、私の乗っている客車のブレーキが締まらないことを見つけ、このまま走ったら、この客車が浮いてしまって脱線の危険があるから外さねばならないなどと言っている。これはえらいことになった。せっかく乗ったのに、そして、いい客車に当たったのに、これを降ろされたら、ぎっしり詰まっているこの列車のどこに乗る隙間があるのか。困ったぞ。
運転手とその助手が、客車の下に入ってみたり、ブレーキをかけたり、締まり具合を見たり、あれこれやっているうちに、閉まっているバルブを見つけ、それを開けたら締まるようになった。やれやれ。
運転しているだけで、ブレーキの効きの不具合を感じとったり、その原因を調べて見つけてくれて直した運転手の技量と技術に感心するやら、感謝するやらでした。
新宿について、伯父の住んでいる、と言っても、家は焼けてなく、近所の焼け残ったお蔵に仮住まいしているところへ向かいましたが、どうやって行ったのか。今はもう、断片的にしか思い出せません。
[No.7]
修学旅行の思い出
投稿者:
投稿日:2010/12/01(Wed) 11:55
[関連記事] URL:http://fine.ap.teacup.com/serie-brog/ |
昭和20年8月15日、日本が戦争に敗れ、勤労動員で工場に勤務して
いた私たちは、その翌日から学園に復帰した。
物資欠乏で教科書もノートもなく、豊かな今の日本人には想像も付かない
不自由な学園生活であった。基本道徳が百八十度引っくり返り、信ずるも
のを無くした予科練帰りの若者が首に真っ白な落下傘用の絹布を巻きつけ
ドスを懐に呑んで、ヤクザそこのけの我が物顔でのし歩いていた。
我がクラスにも一人、匕首を懐に登校している奴がいた。と言えば皆さん
ビビッちゃうだろうなぁ。銃砲刀剣所持等取締法が施行されたのは、昭和
33年4月1日で当時は刀剣所持は違法ではなかった。そんな時代でした。
昭和21年秋、翌年の卒業を控え、修学旅行に行った。行く先は別府…。
戦災と資材不足で交通機関は最悪、いろいろ難行苦行はあったが長くなる
のでそれは割愛しよう。
旅館に赴く途中三人のチンピラに出会ってガンを付けられた。それが何か
の因縁だったらしい。旅館に到着して仲居さんに部屋へ案内されて廊下を
あるいていると、ドカドカと乱暴な足音を立てて、一団が私たちを追い越
していった。「ハテさっきのチンピラどもかな?」と思ったが気にも止めず
部屋に入る。
四人一部屋で 私たちは部屋に入ると早速車座になって雑談を始めた。私は
入り口ふすまの脇の柱に背を凭れ、腕組みをして学友の話に耳を傾けていた。
とその時、ブスッと言う音とともに私の脇腹を20センチメートル程逸れて
1尺5寸ほどのドスが突き刺されたのである。一瞬学友三人の顔が凍りつく。
今思うと硬直した学友らの顔々をよそに、仲居さんか誰かが粗相をして箒か
はたきで襖を突き破ったように、平然とドスを見下ろしていた記憶がある。
目前に起きた事態への反応が鈍いのかもしれないが、私は子供の頃からこの種の
修羅場には何度か遭遇しているし、小学校の頃も親父の留守を見計らって
伝家の長船を持ち出し振り回して遊んでいたから、刀剣に対する恐怖心は些かも
持ち合わせがない。これが私の愛刀家となる温床だったかも知れない。
今、私は2振りの日本刀を所持している。
瀬里恵
[No.3]
Re: 黎明期の「テレビドラマ」
投稿者:男爵
投稿日:2010/12/01(Wed) 09:37
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マーチャン こんにちは
> 我が家へテレビがお輿入れしたのは今の天皇様の「ご結婚」のとき。
> 知り合いのお宅で、あの「馬車行列」(1959年)を見せていただき
> その素晴らしさに大いに感動。
私の家は貧しかったので
テレビはなかなか買えませんでした。
買ったのは私が大学に入ってからで
私は家族と離れていましたから
実家で見たのはたまの夏休みとか冬休みのときです。
町では
電気屋さんの前の高いところに置かれた街頭テレビで
力道山がスターでしたね。
あと、月光仮面..... このころはテレビ番組も直接見ていません。
> 忘れられないのが「バス通り裏」と「事件記者」でした。
>
> 「バス通り裏」は、軽快なテーマソングではじまり
> 「等身大」(よりは少しいい暮らし)の市民の日常が描かれていました。
「バス通り裏」は人気があったようです。
しかし、私が勉強しようとすると隣の家の部屋から、大きな音楽が流れて
私にとっては神経に害を与えるものでした。
あの番組を見たなら、また印象も違っていたのでしょうけれど。
[No.2]
黎明期の「テレビドラマ」
投稿者:
投稿日:2010/12/01(Wed) 08:32
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我が家へテレビがお輿入れしたのは今の天皇様の「ご結婚」のとき。
知り合いのお宅で、あの「馬車行列」(1959年)を見せていただき
その素晴らしさに大いに感動。
「ウチでもテレビを買いましょう」ということになりました。
いつ購入したのかは忘れましたが「東京オリンピック」(1964)の
入場式は我が家のテレビで見たような気がします。
当時は、普通のお宅では家電製品は「月賦」で買ったのですね。
毎月、3000円ずつの「月賦」の払いは大変だったのです。
とにかく、一生懸命見ました。
忘れられないのが「バス通り裏」と「事件記者」でした。
「バス通り裏」は、軽快なテーマソングではじまり
「等身大」(よりは少しいい暮らし)の市民の日常が描かれていました。
TV版ホームドラマの草分けでしょうね。
会社の昼食時の話題にもなっていました。
十朱幸代さんや、佐藤英夫さんなど、それぞれご贔屓があったようでした。
当時は、そんなにチャンネルもありませんでしたから、みな同じような
番組を見ていたのですね。
[No.1]
戦後の日本/私の場合
投稿者:男爵
投稿日:2010/11/30(Tue) 17:08
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