[掲示板へもどる]
一括表示

[No.109] 進駐軍 投稿者:ナッツ甲  投稿日:2010/12/08(Wed) 00:09
[関連記事

田舎に住んでいた私ですが、近くに美保空港(今は「米子鬼太郎空港」などという
名前になっています)、天然の良港があり、対岸にレーダー基地があったせいか、
進駐軍の兵隊さんたちとは、皆さんよりよく接していたようです。

中でも、ジャックさんという若い兵隊さんは、陽気で、子供好きで、よく遊んでもらい
ました。ギブミーなどと言わなくてもチョコやガムはよく貰いました(^o^)v
豆の入ったチョコなんて、生れて初めて食べました。

ジャックさんはオンリーのユキさんと一緒に住んでおられました。そのジャックさんは、風の便りで、その後戦死したと聞きましたので、朝鮮戦争だったんでしょうね。

近所には日本女性と結婚された将校さんがおられ、この方はジャックさんと違って
物静かな男性でした。赤ちゃんもいましたが、彼も私とそんなに違わない年頃、いまは
高齢者の仲間入りでしょう。家族で帰国されたという話でしたが・・・

話は違いますが、進駐軍から駐留軍と呼ばれ方が変わったのは、何年頃だったでしょうか。
友達が、これからは駐留軍と言わなければおまわりさんに捕まるのだと話していて、
とっても怖かった記憶があります。シンチューグンもチューリューグンも、漢字も
意味も知らなかったころの話です。


[No.112] Re: 進駐軍 投稿者:男爵  投稿日:2010/12/08(Wed) 07:14
[関連記事

ナッツ甲さん

> ジャックさんはオンリーのユキさんと一緒に住んでおられました。そのジャックさんは、風の便りで、その後戦死したと聞きましたので、朝鮮戦争だったんでしょうね。
>
> 近所には日本女性と結婚された将校さんがおられ、この方はジャックさんと違って
> 物静かな男性でした。赤ちゃんもいましたが、彼も私とそんなに違わない年頃、いまは
> 高齢者の仲間入りでしょう。家族で帰国されたという話でしたが・・・

私はナッツ甲さんの書き込みで
 エリザベス・サンダースホームを創設し、2000人近くの混血孤児を育て上げた
沢田美喜や
 森村誠一の「人間の証明」
を思い出します。
あるいは
映画「慕情」を思い出します。
  蛇足ながら、この映画には舞台の香港には決していないアメリカの蝶が出てきて驚いてしまいましたが。


[No.120] Re: 進駐軍 投稿者:   投稿日:2010/12/08(Wed) 11:51
[関連記事

ナッツ甲さん

> 話は違いますが、進駐軍から駐留軍と呼ばれ方が変わったのは、何年頃だったでしょうか。

たしか講和条約が発効(1952.4.28)してからだったと記憶しています

進駐は敵国へ進軍していって留まる
駐留は他国内に留まる
。。。といった意味合いの違いだったと思います


     さんらく亭@甲子園  


[No.123] 戦後史 投稿者:男爵  投稿日:2010/12/08(Wed) 16:55
[関連記事

ナッツ甲さん、さんらく亭さん  こんにちは

> > 話は違いますが、進駐軍から駐留軍と呼ばれ方が変わったのは、何年頃だったでしょうか。
> たしか講和条約が発効(1952.4.28)してからだったと記憶しています

ネットで調べてみました。
 賠償・準賠償・各種請求権処理等関係条約一覧      
 (国立国会図書館外交防衛課まとめから作成)

  (署名年月日/発効年月日)
 日本国との平和条約(サン・フランシスコ平和条約)(1951.9.8/1952.4.28)
 中華民国との平和条約/議定書/交換公文(1952.4.28/同 8.5/日中国交回復に伴い終了)
 インドとの平和条約(1952.6.9/1952.8.27)
    以下省略

こちらはベルリンの壁の関連の年表です。
 1945年5月7日/9日 第二次世界大戦(欧州戦線)終結。戦勝四カ国ドイツとベルリン占領。
 1949年5月23日 ドイツ連邦共和国(西ドイツ)の成立。
 1949年10月7日 ドイツ民主共和国(東ドイツ)の成立。
 1951年9月8日 サンフランシスコ条約締結。
 1952年5月26日 東西ドイツ国境。西ベルリンと東ドイツ国境の封鎖。(東西ベルリン境界は通行自由)
 1953年6月17日 東ドイツ政権に対する国民蜂起。ソ連軍介入で鎮圧。
 1956年12月18日 日本、国連加盟。
 1961年8月13日 東西ベルリンの境界線封鎖。ベルリンの壁建設開始。
 1963年12月19日 西ベルリン市民の東ベルリン訪問開始。
 1972年5月15日 沖縄返還。
 1989年9月10日 ハンガリー、東ドイツ国民にオーストリア国境開放。
 1989年11月9日 ベルリンの壁崩壊。
 1990年10月3日 ドイツ再統一。


[No.130] Re: 戦後史 投稿者:   投稿日:2010/12/08(Wed) 22:55
[関連記事

進駐軍、駐留軍の勉強をさせていただきありがとう!

小学校のころ、私の近所の家によくアメリカの兵隊さんが来ていたように
思います。○○ガールというのか、派手な女の人が腕を組んでいました。
その兵隊さんらにガムをもらったのを覚えていますね。

それと中学校の庭続きが羽田飛行空港でした。昔は「飛行場」ですかね。
そこへ先生とクラスの人たちとよく行きました。
兵隊さんが一杯いて、可愛がってくれましたね。もちろん英語はできま
せん。

なぜ、行ったかと言うと、「先生、自習時間にしましょう。飛行場です」
と私が提案したのです。


[No.135] Re: 戦後史 投稿者:男爵  投稿日:2010/12/09(Thu) 06:14
[関連記事

あやさん

> それと中学校の庭続きが羽田飛行空港でした。昔は「飛行場」ですかね。
> そこへ先生とクラスの人たちとよく行きました。

> なぜ、行ったかと言うと、「先生、自習時間にしましょう。飛行場です」
> と私が提案したのです。

近かったのですね。
ということは
飛行機の騒音も大きかったのでしょうか。


[No.151] Re: 戦後史 投稿者:   投稿日:2010/12/10(Fri) 18:41
[関連記事

男爵さん

>
> > それと中学校の庭続きが羽田飛行空港でした。昔は「飛行場」ですかね。
> > そこへ先生とクラスの人たちとよく行きました。

> 近かったのですね。
> ということは
> 飛行機の騒音も大きかったのでしょうか。

飛行機の騒音が大きかったかどうか、記憶にありません。
大きな校庭を歩くと川、海があって、その川の向こうが飛行場でした。

「一中丸」と名のついた小さな舟で渡るのです。誰が動かしたのかな?


[No.158] Re: 戦後史 投稿者:男爵  投稿日:2010/12/10(Fri) 19:15
[関連記事


> 「一中丸」と名のついた小さな舟で渡るのです。誰が動かしたのかな?

あやさん
きっと渡し守の船頭さんがいたと思います。

昭和39年
東京オリンピックの時
調布で多摩川の渡しに毎朝船頭さんの世話で
川を渡ったことがあります。 夏に実習でお世話になりました。


[No.160] Re: 戦後史 投稿者:BUP  投稿日:2010/12/10(Fri) 20:53
[関連記事

昭和17年8月、俺はその羽田飛行場より零式輸送機に乗り、セレベス島のマカッサルに向け飛び立ちました。
父母には、一寸行って来ると言い残しましたが。
森が崎、羽田の浅瀬では潮干狩りの記憶が残ってます。
小学校のときは夏休みは殆ど毎日、森が崎の海水浴場で泳いでました。
(明日から福島県小名浜の家の庭の草刈りに行きますので留守になります)


[No.161] Re: 戦後史 投稿者:男爵  投稿日:2010/12/10(Fri) 21:01
[関連記事

> 昭和17年8月、俺はその羽田飛行場より零式輸送機に乗り、セレベス島のマカッサルに向け飛び立ちました。
> 父母には、一寸行って来ると言い残しましたが。
> 森が崎、羽田の浅瀬では潮干狩りの記憶が残ってます。
> 小学校のときは夏休みは殆ど毎日、森が崎の海水浴場で泳いでました。
> (明日から福島県小名浜の家の庭の草刈りに行きますので留守になります)

BUPさん
肉親にも誰にでも
行き先は言ってはいけなかったのですね。
 どこにスパイがいるかもしれない。

小名浜から帰ってきたら
また書いてください。


[No.168] Re: 戦後史 投稿者:   投稿日:2010/12/11(Sat) 20:20
[関連記事

> 昭和17年8月、俺はその羽田飛行場より零式輸送機に乗り、セレベス島のマカッサルに向け飛び立ちました。
> 父母には、一寸行って来ると言い残しましたが。

うわぁ、すごい。一寸行ってくるなんですか?

> 森が崎、羽田の浅瀬では潮干狩りの記憶が残ってます。
> 小学校のときは夏休みは殆ど毎日、森が崎の海水浴場で泳いでました。

森が崎で潮干狩りを楽しんだなんて! まさに私も森が崎で毎日遊んで
いたのです。
森が崎の隣に住み、森が崎にあった1中へ通っていたのです。

> (明日から福島県小名浜の家の庭の草刈りに行きますので留守になります)

いっていらっしゃい! 楽しいお話しを待っています。


[No.164] Re: 進駐軍 投稿者:ナッツ甲  投稿日:2010/12/10(Fri) 23:34
[関連記事

さんらく亭さん、ありがとうございます。

> > 話は違いますが、進駐軍から駐留軍と呼ばれ方が変わったのは、何年頃だったでしょうか。
>
> たしか講和条約が発効(1952.4.28)してからだったと記憶しています

そうでしたか。すると、小学校の3,4年の頃に聞いたのでしょう。

> 進駐は敵国へ進軍していって留まる
> 駐留は他国内に留まる
> 。。。といった意味合いの違いだったと思います

その程度の言葉の差に過ぎないのに、なぜ、あの友達は「捕まる」なんて言ったので
しょうね。誰か、それを教えた彼女の周囲の大人が、子供をからかったのかもしれま
せん。

本気で怖かった私は、60年も昔のことを、いまだに記憶しているのです(^^ゞ

鮮明な記憶が、一つでも多く残っているのは、いいことかも知れないヽ(^o^)丿