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[No.7] 修学旅行の思い出 投稿者:   投稿日:2010/12/01(Wed) 11:55
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昭和20年8月15日、日本が戦争に敗れ、勤労動員で工場に勤務して
いた私たちは、その翌日から学園に復帰した。

物資欠乏で教科書もノートもなく、豊かな今の日本人には想像も付かない
不自由な学園生活であった。基本道徳が百八十度引っくり返り、信ずるも
のを無くした予科練帰りの若者が首に真っ白な落下傘用の絹布を巻きつけ
ドスを懐に呑んで、ヤクザそこのけの我が物顔でのし歩いていた。

我がクラスにも一人、匕首を懐に登校している奴がいた。と言えば皆さん
ビビッちゃうだろうなぁ。銃砲刀剣所持等取締法が施行されたのは、昭和
33年4月1日で当時は刀剣所持は違法ではなかった。そんな時代でした。

昭和21年秋、翌年の卒業を控え、修学旅行に行った。行く先は別府…。
戦災と資材不足で交通機関は最悪、いろいろ難行苦行はあったが長くなる
のでそれは割愛しよう。

旅館に赴く途中三人のチンピラに出会ってガンを付けられた。それが何か
の因縁だったらしい。旅館に到着して仲居さんに部屋へ案内されて廊下を
あるいていると、ドカドカと乱暴な足音を立てて、一団が私たちを追い越
していった。「ハテさっきのチンピラどもかな?」と思ったが気にも止めず
部屋に入る。

四人一部屋で 私たちは部屋に入ると早速車座になって雑談を始めた。私は
入り口ふすまの脇の柱に背を凭れ、腕組みをして学友の話に耳を傾けていた。

とその時、ブスッと言う音とともに私の脇腹を20センチメートル程逸れて
1尺5寸ほどのドスが突き刺されたのである。一瞬学友三人の顔が凍りつく。

今思うと硬直した学友らの顔々をよそに、仲居さんか誰かが粗相をして箒か
はたきで襖を突き破ったように、平然とドスを見下ろしていた記憶がある。
目前に起きた事態への反応が鈍いのかもしれないが、私は子供の頃からこの種の
修羅場には何度か遭遇しているし、小学校の頃も親父の留守を見計らって
伝家の長船を持ち出し振り回して遊んでいたから、刀剣に対する恐怖心は些かも
持ち合わせがない。これが私の愛刀家となる温床だったかも知れない。

今、私は2振りの日本刀を所持している。


                 瀬里恵


[No.9] Re: 修学旅行の思い出 投稿者:   投稿日:2010/12/01(Wed) 20:02
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> 物資欠乏で教科書もノートもなく、豊かな今の日本人には想像も付かない
> 不自由な学園生活であった。基本道徳が百八十度引っくり返り、信ずるも
> のを無くした予科練帰りの若者が首に真っ白な落下傘用の絹布を巻きつけ
> ドスを懐に呑んで、ヤクザそこのけの我が物顔でのし歩いていた。

当時はみんな
価値観や世界観のひっくりかえった思いだったのでしょう。

> とその時、ブスッと言う音とともに私の脇腹を20センチメートル程逸れて
> 1尺5寸ほどのドスが突き刺されたのである。一瞬学友三人の顔が凍りつく。

鶴田浩二か高倉健の映画みたいですが
瀬里恵さんのお話には驚くばかりです。

> 今、私は2振りの日本刀を所持している。

博物館のガラスの向こうに展示されている刀と
実際に座敷で振りまわされる日本刀の間には
大きな落差を感じます。


[No.20] Re: 修学旅行の思い出 投稿者:   投稿日:2010/12/02(Thu) 08:31
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Re: 修学旅行の思い出
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男爵さん…コメント有難う御座います。

> > 今、私は2振りの日本刀を所持している。
>
> 博物館のガラスの向こうに展示されている刀と
> 実際に座敷で振りまわされる日本刀の間には
> 大きな落差を感じます。

日本刀への認識は現代日本では大変に誤解されています。
日本刀は世界中て日本人のみが作り得た美術工芸品です。
つまり美術工芸品と言う「物」であって「物」に罪はありません。
日本刀を所持する人自身が「凶器」であるか、「美術愛好家」
であるかによると思います。

日本刀の登録先は警察ではなく、都道府県の文化庁である事に
よっても理解戴けると思います。

ちなみに私の愛刀は「岩切海部」の系譜の一人「海部氏吉」
二尺二寸と、現代刀「肥前住保則」二尺三寸五分です。
ほかに居合い練習のため自作の模擬刀も二本あります。

男爵さんも日本刀一振所持されませんか(笑)


           瀬里恵


[No.14] Re: 修学旅行の思い出 投稿者:   投稿日:2010/12/01(Wed) 22:27
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> 昭和20年8月15日、日本が戦争に敗れ、勤労動員で工場に勤務して
> いた私たちは、その翌日から学園に復帰した。

もうこのころ働いていらしたのですか。尊敬です。

> 昭和21年秋、翌年の卒業を控え、修学旅行に行った。行く先は別府…。
> 戦災と資材不足で交通機関は最悪、いろいろ難行苦行はあったが長くなる
> のでそれは割愛しよう。

戦争が終わって翌年というのに、修学旅行ができたのですね。
この数年あとでしょうか? 私が通っていた東京の小学校の修学旅行は京都、
奈良の3泊4日でした。

>
> 四人一部屋で 私たちは部屋に入ると早速車座になって雑談を始めた。私は
> 入り口ふすまの脇の柱に背を凭れ、腕組みをして学友の話に耳を傾けていた。
>
> とその時、ブスッと言う音とともに私の脇腹を20センチメートル程逸れて
> 1尺5寸ほどのドスが突き刺されたのである。一瞬学友三人の顔が凍りつく。
>

ずいぶんと怖いことでしたね。

私たちの泊まった部屋は、クラス全員が寝られたのではないかという
広い部屋でした。男子も女子も一緒でしたよ。
みんなで布団を投げ合って、暴れまくって、布団が破れてしまって、
翌日に先生からお小言でした。よき懐かしい戦後ではありました。

>
> 今、私は2振りの日本刀を所持している。
>

お気をつけて! 振り回しませんようにね! 振り回されませんようにね!


[No.21] Re: 修学旅行の思い出 投稿者:   投稿日:2010/12/02(Thu) 09:02
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あやさん、レス有難う御座います。


> > 昭和20年8月15日、日本が戦争に敗れ、勤労動員で工場に勤務して
> > いた私たちは、その翌日から学園に復帰した。
>
> もうこのころ働いていらしたのですか。尊敬です。

これは工場で働いていた健康な方々が殆ど軍隊に行かされ従業員が不足し
その穴埋めとして、国家総動員令という法令が施行され、無職者や学生が
学業を中止して工場で働かされていたのです。

> 戦争が終わって翌年というのに、修学旅行ができたのですね。

1泊2日、交通機関も復旧していなくて、大分から別府まで小雨降る中を
別府まで歩きました(涙)
> > とその時、ブスッと言う音とともに私の脇腹を20センチメートル程逸れて
> > 1尺5寸ほどのドスが突き刺されたのである。一瞬学友三人の顔が凍りつく。

> ずいぶんと怖いことでしたね。

私は「なんじゃこりゃ」と思っただけで怖い思いはしませんでした。
当時、村八分だった我が家は時々村人と抗争があり、伯父が伝家の長船を
抜き放って切り込んだり、お花見の季節にはヤクザがドスを抜き放って対峙
したりという修羅場を子供の頃から見てきましたから…。

> お気をつけて! 振り回しませんようにね! 振り回されませんようにね!

ご心配有難う。何もスポーツをしない私は、一つぐらいは何かやらねばと
居合道をやっていましたから、足の達者な間はいつも振り回していました。
今でも座位で真剣の素振りを時々やっていますよ。
ちっとも危険なことはありません。ご安心召され。ワハハハハ


                瀬里恵


[No.37] Re: 修学旅行の思い出 投稿者:   投稿日:2010/12/02(Thu) 21:54
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瀬里恵さん

> これは工場で働いていた健康な方々が殆ど軍隊に行かされ従業員が不足し
> その穴埋めとして、国家総動員令という法令が施行され、無職者や学生が
> 学業を中止して工場で働かされていたのです。

そうなんですか。学徒動員というのはそのようなことで働かさせられたのですね。

> 1泊2日、交通機関も復旧していなくて、大分から別府まで小雨降る中を
> 別府まで歩きました(涙)

どのくらいな距離があるのかわかりませんが、大変でしたね。
しかも1泊2日の短い工程の中では、歩いて終わった感じ!


> > > とその時、ブスッと言う音とともに私の脇腹を20センチメートル程逸れて
> > > 1尺5寸ほどのドスが突き刺されたのである。一瞬学友三人の顔が凍りつく。
>
> 私は「なんじゃこりゃ」と思っただけで怖い思いはしませんでした。
> 当時、村八分だった我が家は時々村人と抗争があり、伯父が伝家の長船を
> 抜き放って切り込んだり、お花見の季節にはヤクザがドスを抜き放って対峙
> したりという修羅場を子供の頃から見てきましたから…。

うわっ! 信じられません。
村八分なっていうのもそのころあったのですか? 昔のことかと思っていたのに。

> ご心配有難う。何もスポーツをしない私は、一つぐらいは何かやらねばと
> 居合道をやっていましたから、足の達者な間はいつも振り回していました。
> 今でも座位で真剣の素振りを時々やっていますよ。
> ちっとも危険なことはありません。ご安心召され。ワハハハハ
>

オホッホッホッ! 今でも座位のまま素振りなんて! 考えられませんが
安心しています。


[No.22] Re: 修学旅行の思い出 投稿者:   投稿日:2010/12/02(Thu) 09:08
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あやさん こんにちは

>> 昭和20年8月15日、日本が戦争に敗れ、勤労動員で工場に勤務して
>> いた私たちは、その翌日から学園に復帰した。
>
>もうこのころ働いていらしたのですか。尊敬です。

あれま!勤労動員と言うのは、お国のために、兵器を作るために学生を動員して
使ったと言うことです。
文科の学生は繰り上げ徴兵されましたけど、理科の学生は、徴兵こそされません
でしたが、軍需工場に行って兵器を作りました。私も、桂にあった中日本重工の
工場で飛行機のエンジンの部品を作りましたよ。
戦後、その時の給料として、中学卒の公定?給与の5か月分(20年4月から
8月まで)二百何十円を郵便貯金通帳でもらいましったっけ。

  紫竹の(小澤)


[No.26] Re: 修学旅行の思い出 投稿者:   投稿日:2010/12/02(Thu) 16:57
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Re: 修学旅行の思い出
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あやさん 紫竹のさん、男爵さん…。

> あれま!勤労動員と言うのは、お国のために、兵器を作るために学生を動員して
> 使ったと言うことです。
> 文科の学生は繰り上げ徴兵されましたけど、理科の学生は、徴兵こそされません
> でしたが、軍需工場に行って兵器を作りました。私も、桂にあった中日本重工の
> 工場で飛行機のエンジンの部品を作りましたよ。

私は三井三池精錬所でした。高等女学校の女子学生も動員で来ていましたネ。
当時、韓国は日本と合併していて日本人扱いでしたから、朝鮮人も動員されて
来ていました。これが歪曲されて強制連行されてナンとかされたと抗議してい
るようですネ。

強く記憶に残っているのは、双葉山一門が慰問を兼ねて一週間程度動員で来て
いた事です。本部事務所の玄関ホールの椅子に、端然と古紙を降ろして出勤し
てきた私を見ていました。まさに角聖というに相応しいオーラが漂っていた
記憶があります。


              瀬里恵


[No.32] Re: 修学旅行の思い出 投稿者:男爵  投稿日:2010/12/02(Thu) 18:42
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瀬里恵さん

> 私は三井三池精錬所でした。高等女学校の女子学生も動員で来ていましたネ。
> 当時、韓国は日本と合併していて日本人扱いでしたから、朝鮮人も動員されて
> 来ていました。これが歪曲されて強制連行されてナンとかされたと抗議してい
> るようですネ。

そうです。
当時の事情を知らないと誤解の方向に行きます。

> 強く記憶に残っているのは、双葉山一門が慰問を兼ねて一週間程度動員で来て
> いた事です。本部事務所の玄関ホールの椅子に、端然と古紙を降ろして出勤し
> てきた私を見ていました。まさに角聖というに相応しいオーラが漂っていた
> 記憶があります。

双葉山の偉業は
いまになっても大変なことです。
今は今で条件がちがうから、別な大変なことですが。


[No.38] Re: 修学旅行の思い出 投稿者:   投稿日:2010/12/02(Thu) 22:00
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紫竹のさん、こんばんは

>
> あれま!勤労動員と言うのは、お国のために、兵器を作るために学生を動員して
> 使ったと言うことです。
> 文科の学生は繰り上げ徴兵されましたけど、理科の学生は、徴兵こそされません
> でしたが、軍需工場に行って兵器を作りました。私も、桂にあった中日本重工の
> 工場で飛行機のエンジンの部品を作りましたよ。

勤労動員の意味がわかりました。いい歳の私なのに、疎いのです。
私よりいくつかしか違わないのに働いていたというのを聞いて、
感心はしていたのです。

> 戦後、その時の給料として、中学卒の公定?給与の5か月分(20年4月から
> 8月まで)二百何十円を郵便貯金通帳でもらいましったっけ。
>

まったくわかりましぇんー。そのころの給料というのは?
二百何十円ももらったなんて、ものすごいと思います。


[No.41] Re: 修学旅行の思い出 投稿者:   投稿日:2010/12/02(Thu) 22:19
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紫竹のさん、あやさん、こんばんは

> > 戦後、その時の給料として、中学卒の公定?給与の5か月分(20年4月から
> > 8月まで)二百何十円を郵便貯金通帳でもらいましったっけ。

> まったくわかりましぇんー。そのころの給料というのは?
> 二百何十円ももらったなんて、ものすごいと思います。

この金額で
たとえばお米をどれくらい買えたでしょうか。
あるいは、当時の大学出の公務員の給料はいくらくらい?


[No.44] Re: 修学旅行の思い出 投稿者:   投稿日:2010/12/03(Fri) 10:54
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男爵さん、紫竹のさん、あやさん、皆さん…。再見!!

> > > 戦後、その時の給料として、中学卒の公定?給与の5か月分(20年4月から
> > > 8月まで)二百何十円を郵便貯金通帳でもらいましったっけ。

当時、旧中卒の月給水準は70円だったと記憶しています。
私は昭和19年4月から昭和20年8月までですから、1000円以上は
貰った筈ですが、その記憶がありません。

> たとえばお米をどれくらい買えたでしょうか。
> あるいは、当時の大学出の公務員の給料はいくらくらい?

私の資料では、終戦時
お米は10キログラムで6円、牛肉100グラム80銭、ビール2円
郵便料金(20グラム)10銭、
大学卒の初任給は技術系で100円から150円程度となっています。


            瀬里恵


[No.45] Re: 修学旅行の思い出 投稿者:男爵  投稿日:2010/12/03(Fri) 11:02
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> > たとえばお米をどれくらい買えたでしょうか。
> > あるいは、当時の大学出の公務員の給料はいくらくらい?
>
> 私の資料では、終戦時
> お米は10キログラムで6円、牛肉100グラム80銭、ビール2円
> 郵便料金(20グラム)10銭、
> 大学卒の初任給は技術系で100円から150円程度となっています。

瀬里恵さん ありがとうございます。

給料100円の人が、それを全部使ったらビール50本買えるとか
お米170キログラム買えるというと、わかりやすいです。

ビール3本とお米10キロ(どちらも当時6円) まあそんなものでしょうか。
今のビールは安くなったみたいです。


[No.51] Re: 修学旅行の思い出 投稿者:  投稿日:2010/12/03(Fri) 17:21
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  瀬里恵さん、皆さん。

 初めての修学旅行は、新制中学2年(S.24年)の秋で然も同県内の長崎市への日帰りでした。当時は急行列車や快速列車等は無く鈍行で3時間を要しました。

 日帰りですので、枕投げ等の経験はS.27年春の高校の際の修学旅行で経験しました
行き先は、京都、奈良でした。行帰りとも一晩は列車で寝なくては為りませんでした。

 小柄だった私メは、頭上の荷物を載せる網棚(当時は網棚でした)に寝たのを思い出しました。

> 我がクラスにも一人、匕首を懐に登校している奴がいた。と言えば皆さん
> ビビッちゃうだろうなぁ。銃砲刀剣所持等取締法が施行されたのは、昭和
> 33年4月1日で当時は刀剣所持は違法ではなかった。そんな時代でした。

 話は変わりますが、終戦翌年の国民学校6年の時クラスに、矢張り匕首をかばんに入れて登校する者がいました、福岡市からの転校生で親父がヤクザだっのですが、そいつがクラスの今で言う「番長」格のと喧嘩になり匕首を持ち出して相手に切り付け怪我を負わせましたが、結局は匕首を持ち出したほうが負け学校から逃げ出しました。

 刃物を持っての喧嘩を間近に見た最初でした。怖かったのを覚えています。


 
                              〜〜 昭 〜〜


[No.72] Re: 修学旅行の思い出 投稿者:ナッツ  投稿日:2010/12/04(Sat) 22:44
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昭さん、瀬里恵さん、みなさん

>  初めての修学旅行は、新制中学2年(S.24年)の秋で然も同県内の長崎市への日帰りでした。当時は急行列車や快速列車等は無く鈍行で3時間を要しました。

初めての修学旅行は、小学校6年の時。昭和30年だったと思います(^^ゞ
その年か、前年か、洞爺丸と紫雲丸の沈没事故が続いて、それまでの四国への修学旅行
の行き先が急遽変更になりました。

船を利用しなくてよい、という理由だったのでしょう、広島県の宮島に変更されました。鳥取県の港町から四国に行くより近かったので、ちょっとがっかりしましたが、結果は
思い出に残る修学旅行になりました。

風になびく広いイグサ畑の美しさと、秋の宮島の美しさ、それに大鳥居の浮かぶ瀬戸内
海の潮の干満の差の大きさとが強く印象に残っています。

当時でも、お米を各自が持参しての旅行でした。まだまだ戦後でしたね。

>  日帰りですので、枕投げ等の経験はS.27年春の高校の際の修学旅行で経験しました
> 行き先は、京都、奈良でした。行帰りとも一晩は列車で寝なくては為りませんでした。
>
>  小柄だった私メは、頭上の荷物を載せる網棚(当時は網棚でした)に寝たのを思い出しました。

京阪神へは、中学校の修学旅行で行きました。普通列車の夜行で行ったと思います。

車中泊だったので、筋板といいますか、すのこのような板を持参して、向かい合わせの
座席にその板を渡して足を伸ばせるようにして寝ました。

初めての長い乗車だったので、目的地に着いたあと、当分身体が揺れているような感覚
が残りました。

枕投げはしたのかしなかったのか、記憶にありませんが、ここでは、平安神宮のお庭の
満開の枝垂桜に心を奪われ、天国とはこんなところではないかと思ったものです。

あとは、寺社めぐりのバス車中で寝てばかりいたこと、お土産を買った店に忘れてきて
がっかりしたこと、お土産に小遣いを使い果たして、友達が帰りの車内でお菓子などを
買って食べているのが羨ましくてならなかったこと、などが強く記憶されています。

高校では、修学旅行なんかなくていいと、行きませんでした。あの時は希望者だけ
行ったのか、それとも旅行自体が中止になったのか覚えていません(^^ゞ


[No.74] Re: 修学旅行の思い出 投稿者:   投稿日:2010/12/05(Sun) 07:29
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ナッツさん

> 初めての修学旅行は、小学校6年の時。昭和30年だったと思います(^^ゞ
> その年か、前年か、洞爺丸と紫雲丸の沈没事故が続いて、それまでの四国への修学旅行
> の行き先が急遽変更になりました。

> 車中泊だったので、筋板といいますか、すのこのような板を持参して、向かい合わせの
> 座席にその板を渡して足を伸ばせるようにして寝ました。

> 初めての長い乗車だったので、目的地に着いたあと、当分身体が揺れているような感覚
> が残りました。

> あとは、寺社めぐりのバス車中で寝てばかりいたこと、お土産を買った店に忘れてきて
> がっかりしたこと、お土産に小遣いを使い果たして、友達が帰りの車内でお菓子などを
> 買って食べているのが羨ましくてならなかったこと、などが強く記憶されています。

中学の修学旅行は、北海道から桜の弘前に行きました。
平尾昌晃のロカビリーが盛んなころで
友だちがホウキを抱えて真似をしていました。しまいに床に寝ころんで...。

高校の修学旅行は、北海道から京都や奈良へ。
松本清張の「点と線」がベストセラーのころでした。
バスの中では疲れてみんな寝ていました。


[No.75] Re: 修学旅行の思い出 投稿者:   投稿日:2010/12/05(Sun) 11:44
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瀬里恵さん、みなさん こんにちは

私にとって、修学旅行は、小学校6年生(昭和13年)にお伊勢さんに一泊二日で行ったのが最初で最後です。その時の写真は、伝承館に入れたと思います。

中学へ入ったら、その時の5年生が、満州に修学旅行に行った映画を見て、中学校では修学旅行にそういうところに行くのかと感心した覚えがあります。その後は、戦争になり、中学校でも、高等学校(卒業は戦後)でも、修学旅行と言うものは、まったくありませんでした。

  紫竹の(小澤)


[No.76] Re: 修学旅行の思い出 投稿者:   投稿日:2010/12/05(Sun) 16:28
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みなさん こんにちは

修学旅行にはまったく縁がありません(;_;)

小学校(当時は国民学校)6年生のときは戦争末期で連日空襲警報というころでした。
中学校(旧制)1年のとき敗戦になりマッカーサーの命令で学制改革により新制高校に移行したので中学校としての修学旅行はありません。

高校の修学旅行は高3の春に神戸から東海道本線で東京〜日光〜箱根〜神戸というコースで行われましたが、私は父の会社が倒産の瀬戸際で自宅にまで債鬼がやって来る状態だったので、親に無断で修学旅行のことを言わず勝手に不参加を決めて後日になってからそれを知られて母親から叱られたり泣かれたりしました

皆さんのような懐かしい思い出はなく「修学旅行」という言葉を聞くと昭和25年当時の世相や家庭の状況から戦後の歴史の一齣が鮮やかに蘇えってきます


        さんらく亭@甲子園


[No.77] Re: 修学旅行の思い出 投稿者:男爵  投稿日:2010/12/05(Sun) 18:38
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> 修学旅行にはまったく縁がありません(;_;)
>
> 小学校(当時は国民学校)6年生のときは戦争末期で連日空襲警報というころでした。
> 中学校(旧制)1年のとき敗戦になりマッカーサーの命令で学制改革により新制高校に移行したので中学校としての修学旅行はありません。

そして
高校の修学旅行も家庭の都合で参加されなかった
さんらく亭さん

私の両親と同じです。
そういうわけで
私は小学校、中学校、高等学校
それから大学の研修旅行と体験できました。
親には感謝しています。