画像サイズ: 450×326 (74kB) | 前回いちおう(つづく)などと書いてみたが、あまりつづくものが、無いような気がする。でも、(つづく)と書いた責任上(^O^)、もうすこしつづけてみることにする。
XXXXXXXXXXXXXXXXXXXXX XXXXXXXXXXXXXXXXXXXXXXXXX XXXXXXXXXXXXXXXXXXXXX
最近、ドイツはVWの不正ソフト使用の紋題で大揺れに揺れている。そこで、車王国ドイツの一大スキャンダルに若干触れて見ようかとも思ったが、かの地では、何でも日本製の『おにぎり』が大人気とかいうので、批評は控えることにする。(^_-)-☆
で、ドイツ展の展示の方へ戻るが、捕虜収容所での盛んな文化活動のほかに、印象に残ったことを挙げれば、やはりあっしの敬愛する森林太郎こと森鴎外、日本の国際社会への紹介におおいに尽力して呉れた、成りきりオランダ人ことフィリップ・シーボルト、それに地元の史跡、順天堂蘭学塾関係の展示物などなどである。また、
ドイツとの橋渡しに生涯をかけた日本人として大活躍、ついには外務大臣にまでなった青木周蔵と云う人物。あっし自身、恥ずかしながら本展で初めてその存在を知ったが、この仁、すでに日本人妻がありながら、ドイツの伯爵令嬢と結婚するという破天荒な、日本人離れをしたところが、とにかくスゴイ。両者を比較すると、エリーゼを故国に「追い返した」鴎外は、青木に比べ、ちょっと、だらしない感じに見えて来る。
150年と云うタイムスパンでは、色々なことが起こりはしたが、兎に角これだけ続いたので、両国の関係は、将来にわたって、ますます緊密にしたいものだ。
展示物はみな、それぞれに面白かった。だが、その内でも、白眉と云うべきは、アインシュタイン来日の際、地方回りをした。その時同行した岡本一平が描いたというアインシュタインの似顔絵が、実によく出来ており、あっしは辺り構わず、大声で「上手いっ!」と叫んでしまった。
企画展示室はA、Bの2室に分かれ、あまりにも多くの展示物で溢れ返っていたので、どうもうまく考えがまとまらないが、ドイツ学草創期の辞書、文法書の類いなども、関係者には、おおいに参考になるものと思う。
他に、青木周蔵とは別の意味で、沖縄の宮古島に建てられ両国の懸け橋となった、「ドイツ皇帝博愛記念碑」(現在は破損状態がひどく、建立地から撤去されたよし)★、それに木戸正次郎(孝允の甥)の「洋行願」などは貴重な資料だと思う。
★ 同館には、その拓本がある。
うっかりして、書き落としたが、なぜ150年かと思われた方へ。1862年、わが国幕府は(竹内)遣欧使節団をかの地に派遣しましたが、その前年の1861年、わが国とプロイセンは修好通商条約を結びました。それから、150年と云うことです。交渉の担当者は、わが方も幕府なら、先方も、まだドイツ誕生前のプロイセン王国でした。会場内には、この時、条約締結に活躍したドイツ方の、オイレンブルク伯爵の肖像画も飾られていました。
添付写真は、渡航した幕府使節団のカリカチュアですが、日本側も、ドイツ側も、いずれ劣らぬ『出る腹』に描かれています。漫画にするには『出る腹』が不可欠とでも考えたのでしょうか。かの地の「クラダラダッチュ」という風刺漫画誌に掲載されたそうですが、21世紀の今日、その現物が館内で見られることはオドロキです。(完) |