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[No.7671] みほとけを尋ねて 投稿者:KANCHAN  投稿日:2016/07/03(Sun) 08:48
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みほとけを尋ねて
画像サイズ: 179×640 (83kB)
 中学生の時である。学校の職員室近くの壁に、額に入った一枚の仏像の写真が飾られていた。大きさはA3判くらいで、当時のことで、もちろんモノクロである。素朴なおすがたで、何かに腰を掛けられて、右脚を左の腿に載せ、右手は右脚の上に肘突いて、指先を軽く頬に当てておられる。お顔にやさしい笑みを浮かべておられた。私はこの写真が大変気に入った。

 美術の時間に先生からこの写真についての説明があった。日本の国宝第一号で、京都の広隆寺の「弥勒菩薩半跏像」といい、飛鳥時代(七世紀)のものであるという。

 さらに興味を引いたのは、このお像と大変よく似たお像が奈良の中宮寺にもあるというのである。

 こちらは、広隆寺のお像とほぼ同じ頃に造られたもので、写真を見たが、同じようにおだやかなお顔をされた美しいお姿であった。正式には「菩薩半跏像(伝如意輪観音)」と呼ばれ、同じく国宝となっているという。なお、二体とも木から造られている。

 私は、この二つのお像のことが、ずっと気になっていた。何時か、実物にお目にかかりたいと思っていた。

 この思いが実現できたのは、それから四〇年も経ってのことである。

 娘が連れ合いの転勤で、シンガポールに移り住むことになった。私は、彼女が日本を離れる前に、日本の伝統文化に触れさせたいと思った。そして、この時、くだんのお像に会いに行こうと思いついたのである。妻と三人で奈良、京都に出かけた。

 古い美しい建物や仏像たち、奈良の法隆寺はいつ見てもいい。目当ての中宮寺は法隆寺に近接して建てられていた。聖徳太子の中宮のための尼寺であるという。
その中宮寺のご本尊「菩薩半跏像」は、期待に違わず美しいお姿であった。心休まるほほえみであった。

 翌日、私達は京都太秦にある広隆寺を訪ねた。「弥勒菩薩半跏像」は、宝物殿のような建物の中に、他の仏像達と共に安置されていた。この時この形の菩薩半跏像が、他にも何体かあるのを知ったが、しかし、私から見ても、国宝第一号であるご本尊は図抜けて美しかった。弥勒菩薩は、衆生をいかに救おうかと考えておられるという。

太秦と言えば映画村で有名であるが、その地名は朝鮮半島からの帰化人泰氏に由来する。このお像も曾て、聖徳太子所以の蜂岡寺(広隆寺)に、ご本尊として、泰氏から贈られたものであるという。

 娘と妻は、私の中学時代の思い出話を聞き、二つの美しい仏像を見られて大変喜んでいた。

 ところで、その頃私は、引退後の楽しみのために、韓国語の勉強を始めたところであった。そして暫くして手にした韓国語のテキストの中に、韓国にもよく似た仏像があることを知ったのである。私はまたまたそのお像も見たいと思った。

 その機会は、三年ほどまえになるが、友人との韓国旅行で実現した。韓国中央博物館は、現在は龍山というところにあると聞くが、当時はソウルのもとの王宮である慶福宮の前庭にあった。

 問題の仏像は、その中の特別室に安置されていた。「金銅弥勒菩薩半跏像」といい韓国の国宝である。同じように笑みを浮かべておられた。

 このお像は、土中から発掘され、その名のとおり金銅製で、日本の二体より古く、朝鮮半島の三国時代(新羅、百済、高句麗)六世紀のものと推定されるという。

 私は、このお像を仰ぎながら、「みほとけを 尋ね尋ねて 幾千里」といった思いを抱いたものである。
 
 後に知ったことである。実は菩薩半跏像は中国にもあり、源流は遠くインドにあるという。仏教史を辿れば、そんなに不思議なことではなかったのである。

 しかし、写真で見た中国の仏像は殆どが石像であり、仏教寺院のあった跡から発掘されている。

 ここで私が気がついたことがある。中国と朝鮮は、王朝や政権の交代によって、仏教寺院・仏像は、時に保護され、時に破壊の対象になった。韓国にも古いお寺はあるが、数は日本に比べて圧倒的にすくない。日本も明治維新の後、廃仏毀釈という暴挙もあったが、基本的には仏教の流れは連綿と続いて来た。

 中国、韓国では、古い仏像は、一部を除いて、地中から掘り出され、博物館や美術館にある。一方、日本のみ仏達は、一二〇〇年もの間、寺院に祀られ、人々の信仰の対象として崇められて来ているのである。

 私は、奇しくも、日本と、朝鮮や中国との国柄の違いに気が付いたものであった。

 (2007年7月)