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[No.7731] 赤城山 投稿者:KANCHAN  投稿日:2016/09/25(Sun) 10:36
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赤城山
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赤城山 月の影澄み 渡良瀬の ささやくところ・・・


 この句は、私の郷里群馬県桐生市の市歌の出だしである。つまり桐生のお国自慢は赤城山と渡良瀬川で始まる。

 掲題の画像は渡良瀬川の橋の上から、赤城山を望んだものである。私のコンピューターのスクリーンセーバーに使っているが、冬の景色で、赤城山は雪をかぶり、渡良瀬川の水量は多くない。私は毎日コンピューターを開けるたびにこの画像に出会うのである。

 渡良瀬川については、私は以前小随筆を書いたことがある。この川は、日光・足尾山系に水源を発し、赤城山の東の裾を下って、桐生市を抜け、やがて茨城県古河市付近で利根川に合流する。かつて、古河財閥による足尾銅山の開発で、鉱毒が下流に流れ、日本初めての公害問題を起こした川であるが、私たち桐生の人間にとっては、アイデンティティーの核になる大事な川である。私はこの川で泳ぎを覚えた。

 しかし、本稿は赤城山のことを書く。私は少年時代から、高校時代を通じて、この山を意識しながら育ったのである。


 赤城山(地元の者は、アカギヤマ、または単にアカギと呼ぶ)は標高1800メートルほどの休火山である。すそ野は富士山について長く雄大な山であるが、山頂部分は、幾つかのこぶのような峰に分かれている。その山々に囲まれて、大沼と小沼という二つの湖がある。

 赤城山は、榛名山、妙義山とともに、上毛三山といわれるが、その中でも一番高く、かつ群馬県の中央に位置している。

 かつて大日本帝国の航空母艦にこの山の名前が付けられた。空母赤城は真珠湾攻撃の折、機動部隊の旗艦として活躍したが、ミッドウエー海戦では、敵機の集中攻撃で甚大な損害を受け、ついには僚艦によって爆沈されるという悲劇の艦となった。


 私が小学・中学生のころは、この山に登ろうと思ったことはなかった。遠くて高い山であり、簡単に行くすべがなかったからである。

 友人たちの中に、父親がボーイスカウトのリーダーをやっている者がいた。彼は父親の指導の下に、小さいころから何度か登っていたが、それは例外のケースであった。

 当時桐生から足尾に向けて足尾線という支線が走っていた。もともとは足尾銅山の銅を運び出す目的で作られたものであり、渡良瀬川沿いに赤城山の麓を上って行く。足尾線は今では渡良瀬渓谷鉄道という名前になり、一日に数本だけ走っているが、紅葉の時期には結構人気があるという。

 途中に水沼という駅がある。当時赤城山登山者はそこから深夜に出発し、歩いて数時間かけて登るのであった。


 私がこのルートで初めて赤城山に登ったのは、高校を卒業し、一年浪人して大学に入学できた年の夏休みであった。結構装束を固めて中学時代の友人たちと登った。夜明け前に頂上に着いて、日の出を見た。感激であった。私はそれまで登山などしたことがなかったので、なにやらいっぱしの山男になった気がしたものである。


 このルートでは、頂上近くでまず小沼の脇に出る。この沼はあまり大きくなくて、むしろ池といったほうがいいようなたたずまいである。大沼はまだ先になるが、こちらは立派な大きな湖である。この湖についてこんな話がある。

 私たちの中学の教科書に、志賀直哉の一文が載っていた。数人で赤城山の頂上に遊んだ話であるが、そこで「赤城の沼に草履を投げると霧が出るという言い伝えがある」という会話が出てくるのである。さすがに1800メートルの山である。霧が出ることは珍しいことではないのである。

 大沼まで来ると、桐生とは反対側になる前橋からの登山ルートがある。こちらは一の鳥居、二の鳥居と続いて山頂まで道路が整備されて、バスが登ってくるのであった。これはある意味、赤城山は、東側の桐生方面の人間にとっては近づきがたい山であるが、西南側の前橋方面の人間にとっては、行楽の山と見られていたのかもしれない。


 子供の頃、桐生の冬は寒かった。空っ風が吹くのである。11月20日前後にえびす講がある。市の中心を貫く通りに、町会毎に山車が出て、両側に夜店がずらりと並ぶ。この日まで、子供は足袋を穿くことが許されなかった。それが待ち遠しかったのを覚えている。手にはしもやけやあかぎれができた。

 実をいうと、このお祭りのある旧市街からは赤城山は見えない。桐生の地形は、西から北を回って東まで、小高い山々があって、それが、赤城山を遮っているのである。しかし、われわれ桐生っこは、空っ風・赤城おろしと、時に舞う風花(かざはな)で、いやでも赤城山の存在を意識するのであった。中心街をやや南に下ると、掲題の美しい風景が展開するのである。


 私は40代半ばになって、勤め先F銀行の桐生支店長をやることになった。高校を出てから東京の大学に進み、卒業後F銀行に就職した。人並みにサラリーマンで格闘したが、初めての支店長が郷里の支店であったのである。

 父も母もまだ健在であったから、二人はきっとうれしかったであろう。私も思わず親孝行ができたと思っている。桐生に赴任すると、中学や高校の友人たちがめずらしがり、歓迎してくれた。

 私はほぼ毎日、市内を取引先訪問に出かけた。営業範囲は結構広かったから、市内からはもちろん、郊外からも、赤城山をいろいろな角度から眺められた。

 天候によっても山の表情は変わった。晴れ上がった日の赤城山は美しかった。しかし冬の日、雪が舞うと厳しい表情を見せる。頂上のほうが吹雪いているのが見えた。そんな時は、早く帰って支店に逃げ込みたくなったものである。

 桐生支店時代を通じて、赤城山は欠かせない存在であった。山の中腹に幾つかゴルフ場が開発されていたのである。あんなに近づきがたかった山も、モータリゼーションで、容易に登れる山になっていた。私は友人たちや行員たち、そして取引先の人たちと、ゴルフを楽しんだ。車で、自宅から小一時間でゴルフ場に行けた。そして最もよく行ったのは桐生カントリークラブであった。

 桐生カントリーは背後に山頂の峰々を控え、眼下には関東平野の眺望が開けている美しいゴルフクラブである。ただし、夏、ときどき雷雨が襲った。「雷とから風、義理人情」は上州の専売特許である。そういえば、赤城の子守歌で有名な国定忠治は、このあたりの出であった。


 私の桐生支店勤務は四年ほどで終わったが、東京に帰ってからのち、一九九九年に、高校の同期の友人たちと桐生カントリーでやったゴルフ会で、私はホールインワンをやったのである。まさに忘れられない山になった。

 今、私は千葉県の我孫子市に住んでいる。家から北に二十分ほど歩くと、利根川の土手に出る。

 利根川は上流にさかのぼると渡良瀬川にぶつかる。そしてその上流に桐生市が位置する。

 冬の空気が澄んだ日の朝、利根川の土手に立つと、右手に雪をかぶった日光の山々が見えるが、目をまっすぐ上流方面にこらすと、かすかに見覚えの赤城山も見えるのである。初めてそれを確認した日は感激した。

 私は赤城山の空っ風の中で育ち、渡良瀬川で泳ぎを覚え、サラリーマンの一時期を赤城山に見守られて過ごした。そして、我孫子に住んで、お釈迦様の手のひらの上のように、赤城山の見えるところに、終の住まいを構えることができたのである。

 その山川を友として、あずま男の名に恥じぬ、功を挙げん心もて 学びの道にいそしまん。
 
 これは母校桐生高校の校歌の一節である。我が人生を顧みて、さまざまな感慨が胸をよぎる。


[No.7734] Re: 赤城山 投稿者:ザックス  投稿日:2016/10/02(Sun) 16:38
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素晴らしい写真ですね。構図と言い、色彩と言い・・・。

>  掲題の画像は渡良瀬川の橋の上から、赤城山を望んだものである。私のコンピューターのスクリーンセーバーに使っているが、冬の景色で、赤城山は雪をかぶり、渡良瀬川の水量は多くない。私は毎日コンピューターを開けるたびにこの画像に出会うのである。

スクリーンセーバー、むべなるかな  です。これならフォトサロンでも、と思ったら又文書も長くていいんですね。仕方がありませんね。

私もあちこちゴルフは行ってスコアカードが500枚は堪ったのですが、残念ながら桐生は行った事がありませんでした。東松山の会員だったので専らそこへ行きました。
Aクラスの月例で優勝した時の船越保武氏の鳩の浮彫が自慢の賞品です。