[No.7803]
夏目漱石の留学
投稿者:男爵
投稿日:2017/02/19(Sun) 07:30
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よくいわれるのは
夏目漱石の留学と森鴎外の留学の比較です。
片方は文学という、いわゆる虚学 もう片方は医学という、いわゆる実学
漱石の相当年をとってからの留学に対して、鴎外は若かったから青春を謳歌した。
漱石のロンドン生活は苦しかった。 鴎外のベルリン生活は楽しかった。
ここでは
ある本を読んでの夏目漱石のロンドン留学の意味を
私なりにまとめたいと思います。
漱石の留学
漱石は希望してイギリス留学をしたのではなかった。
漱石は留学前に、上田萬年から、留学の目的は
英語の研究をすることで英文学を研究することではない、と言われた
ことにもこだわった。
上田 萬年(うえだ かずとし)は、東京帝国大学文学部長を務めた。 小説家円地文子の父。
後輩の金田一京助には、アイヌ語の研究をせよと言ったように、漱石にも英語学が日本に必要だと言ったのだろう。
彼が英文学に欺かれたような不安感を覚えたのは、彼に漢文学が与えた
充実感があってからである。文学とはこのようなものだという実感を
彼の中に培ってくれたのは漢文学であった。
漱石の期待した漢文学の雰囲気は、近代ヨーロッパの英文学にはなかった。
ロンドンの下宿で1か月暮らした漱石はそこを出てしまう。
その下宿は4人の家族が住んでいたが、ほとんど家族らしい情愛が通っている
とは思われないほどたがいにバラバラな人間関係だった。
漱石はこの家のあまりにも暗い惨めな重苦しい雰囲気にたまらなくなったようだ。
(家主の老令嬢は、母の死亡後、母の再婚相手の義父とその連れ子つまり
義兄、そして義兄の娘の計4人家族として生活していた)
(江藤淳はこの一家をユダヤ人だったかも知れないと推測している)
のちの「味の素」の発明者である池田菊苗が、ドイツ留学を終えての
帰途ロンドンでしばらく、漱石の下宿の一部屋に寝泊まりした。
池田は化学者でありながら英文学、漢文学の素養も深く、
ともに語り合うことのできる友人だった。
しかし化学という着実に目に見える成果のあがる研究をしてきた
池田の自信に満ちた態度は、漱石に自分と英文学との関係の実態を
自覚させずにはおかなかったろう。何の成果もあげなかった漱石の留学。
<ロンドンに住み暮らしたる2年は尤も不愉快の2年なり。余は英国紳士の
間にあって狼群に伍する1匹のむく犬の如く、あわれなる生活を営みたり。
余は物数奇なる酔狂にてロンドン迄踏み出したるにあらず。個人の
意志よりもより大いなる意志に支配せられて、気の毒ながら此歳月を君等の
恩澤に浴して累々と送りたるのみ。2年の後期満ちて去るは、春来って
雁北に帰るが如し>
漱石はここでは、留学は官命による強制だといわんばかりである。
とにかく彼は留学を大いなる無駄と見なしているようだ。
イギリス留学が無駄だったと骨身にしみて感じたであろう漱石は、そこで英文学に
求めるべきでないものを求めていた自分の錯覚に最終的に気づき、
真に自分がなすべき仕事へ目覚める機会を得たに違いない。
留学は回り道であった。しかし作家漱石の誕生のためには必須の過程で
あった。
英国ではできなかった漱石文学を、日本に帰ってから少しずつ築いていった。
作家としての漱石の留学体験は、ヨーロッパと近代日本、そして
近代日本と知識人という問題に深くかかわっているということである。
いまでも文学は、医学や工学のような(すぐ)役に立つものではないから
文学をやる人というのは、世間に対して一種の身構えがあるように思います。
また、世間もわれわれも、文学に対してある種の思いがあるようです。
現代では、夏目漱石は精神病を患っていたことは常識ですが
数十年前には某医師が、漱石の作品から、うつ病ではなかったかと推定していました。
ロンドンで漱石が発狂したという噂が流れ、漱石の妻は
その噂を流したのは当時英国留学していた土井晩翠だろうと思って
抗議の手紙を書いたそうです。(漱石のあとがまを狙った土井晩翠と邪推した)
これはまったくのぬれぎぬ
土井晩翠は大変困ったでしょう。彼も東大出だが、仙台で十分活躍しているから、いまさら東京に行く気はなかったのに。
あとで、その噂は別の男が流したことがわかった。
斎藤茂太の本を読むと、祖父がドイツからの帰りに、ロンドンで漱石と会っていたので
精神科医の祖父と会ったことから、漱石の精神病の噂が流れたのではないかと推定しています。
夏目漱石や金田一京助には厳しかった上田萬年は
文部省唱歌「故郷」「朧月夜」「もみじ」「春の小川」などをつくった
高野辰之の理解者であり指導者でした。
高野が 1925年(大正14年)に「日本歌謡史」で文学博士(東京帝大)となったのは
上田萬年によるところが大きいと思います。