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[No.7955] 群馬県庁は前橋 投稿者:男爵   投稿日:2017/10/23(Mon) 16:51
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前橋にも高崎にも城があった。
その城のあるところは旧群馬郡だった。


群馬県ができたいきさつは、色々な歴史的経過があるのだが
それは省略します。

さて、群馬県令の楫取素彦(かとりもとひこ)は、妻が吉田松陰の妹だった。

群馬県庁は高崎に置かれるはずだったが、陸軍に高崎城を奪われたため、前橋城に移った。

県庁は高崎だったが適当な施設がなく、前橋城に移ることになった。

楫取はこのとき、前橋移転は一時的なものだと高崎市民に約束したが、前橋では市民有志が官吏の住宅などの施設整備に寄付をして引き止めを図った。

  前橋では恩人、高崎では敵(かたき)扱い。(こうこの本に書いてあるが、群馬県人の心境はいかに)


利根川の水害で前橋城が削り取られ危険な状態になったから
前橋藩主は川越城に移った。

生糸の集散地として経済力を増していた前橋の人々は多大な寄付をして
前橋城を修理し、大政奉還の年に殿さまを呼び戻したばかりだった。

それがムダになってはという執念が県庁誘致の原動力になった。

運動の中心になった前橋城下の大商人下村善太郎は、移転資金を供出して新庁舎を用意できれば県庁誘致が可能であると聞いて、みずから1万円を寄付し市内の富豪たちから金を集めた。

下村は大火などの被災者の救援、教育、産業、交通、防災など多くの分野の充実に私財を出して初代市長となった。

前橋にある臨江閣というかつての迎賓館は楫取素彦の提案で建設された施設で、下村はその建設にあたっても多額の寄付をしている。

北陸新幹線と上越新幹線は、高崎で別れる。 前橋より高崎のほうが交通の便がよいのにと私はいつも思っていたが、こういう歴史があったのですね。


さて
ここまで読んで
話は脱線するのですが
はて 臨江閣(りんこうかく) この名前は あのイムジン河にでてくるのではなかったか?
http://duarbo.air-nifty.com/songs/2007/02/post_5992.html

  イムジン河は漢字で書くと「臨津江」


利根川に臨んだ場所に建てたから臨江閣

「臨津江」の津は湊の意味で、直江津や焼津などに残ります。

三重県庁のある津市も臨海都市ですね。



  臨津閣(イムジンガク)
38度線の軍事境界線付近を見渡すことのできる展望台
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%87%A8%E6%B4%A5%E9%96%A3


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