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[No.6813] イタリア人は他者の眼にどう映ったか(主として旅行者や作品に) 投稿者:唐辛子紋次郎  投稿日:2014/09/29(Mon) 20:44
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 イタリア人についてどう書かれているか(もちろん、あっしの狭い見聞の範囲に留まるが、)。外国の文学作品では、イタリア人の評判が、すこぶる悪い。たとえば、ドイツ作家のホフマン☆彡は、その「砂男」の中で、登場人物にコッペリウスという怪しげな人物を使っているがそのあと、コッポラというのも出てくる。コッポラは実は、コッペリウスのイタリア語読みなのだ。更にご丁寧にも、誰がみてもイタリア人と思われるスパランツィーニという名前の、胡散臭い男まで、登場させている。

☆彡チャイコの作曲で有名な「くるみわり」や、漱石が「猫」を書くとき参考に
したのではといわれている「牡猫ムル」も、彼の作品である。

 アメリカのナサニエル・ホーソーンの「ラパチーニの娘」では、イタリア人に如何にもありそうなラパチーニという名の大学教授が、薬草の研究のため、じぶんの娘を実験台にし、最後には愛娘を死に追いやるという酷さだ。

 アメリカの作家で毒舌家のマーク・トゥエインにいたっては、丸でボロクソだ。日本人旅行者だったら、恐らく誰でもが、一度は乗りたがる筈のあのゴンドラも、その色が気に食わなかったのか、立ちどころに縁起の悪い霊柩車に仕立てられてしまうし。ま、そう云われてみれば、満更似ていないこともないが…。(-.-)


 日本の大作家の野上弥生子は、イタリアをどう書いているだろうか。彼女の旅行記「欧米の旅」をチョット覗いてみよう。

 野上弥生子も昭和13年、夫の豊一郎に付いてイタリアへ行った、これはむしろ受動的な旅なのに、さすが大作家だけあって実によく観察しているのには驚かされる。

 もちろん、この時はイタリアに留学中の息子の素一(本文では、単にSとなっている★)が案内に立ってくれたらしいので、おそらく説明が行き届いていたのか、弥栄子自身イタリアに興味が湧いたのか、同書☆の、半分までがイタリアの見聞で埋まっている。

 ナポリでは、カステル・オーヴォ(卵城)のことが書いてあるが、当時は兵舎代わりに使われていたようだ。ヴェスヴィオを見た時には、故国の浅間山を思い出している。ポンペイでは、およそ2000年前の売春宿についての記述がある。この頃は「おんな読むべからず」というか、「見るべからず」の時代だったらしく、ご婦人連は外人を含め、外で紋句も云わずに旦那方の見物が終わるまで、外で辛抱強く、待ち続けていたらしい。

 現在では、婦人でも遠慮なく室内に入って、自由に見物している筈だ。弥生子は、さらに別の家の番人から、およそ2000年前の、焼け残りの小麦と称する代物を買わされたらしいが、あっしの見たところ、これはどう考えても完全な偽物で、おそらく番人の臨時収入になったに違いない。このあと弥栄子は「そのイタリアは、ムッソリーニとファシズムですっかり大掃除が出来た」と、ファシズムを手放しで礼賛している。他の箇所でも、畑がよく整備されているのは、ムッソリーニのお蔭だと書いている。

 また、イタリアの駅弁は、あっしらもミラノ駅で買ったことがあるが、この頃からもう既にあったようだ。その内容も、パンとハムとオレンジ、それにワインの小瓶。あっしらのと、寸分、変わってはいない。レストランで食事をするときも、店の人が客の顏を覗き込んでは絶えず「味はどうか、美味しいか」としつこく聞いてくるのも、あっしらの体験したことだし、突然店内の電気が消えてソルプレーザ(サプライズ)が始まったりするのも、何度も体験した懐かしい光景だ。

 イタリア=ビンボーの公式でいえば、弥栄子はポンペイの項で、こんなことも、書いている。夏休みを利用してこの廃墟を、金持ちぞろいのアメリカ人に高額で貸出し、別荘代わりに使わせたらどうだろう、と。新しもの好きのアメリカ人のこと、きっとこの話に乗るに違いない。そうなれば、お互いの利益になるというが、この名所をアメリカ人に独占されては、方々から抗議の声が上がるだろう。また、家賃を払っていることを盾に、いわゆるアメリカ式に改築されたりしたら、もうポンペイの価値はなくなってしまうだろう。もちろん、イタリアではこの遺跡の維持管理に頭を痛めていることは事実だ。予算の足りないせいか、数か所で崩落が起こったという話をだいぶ前に聞いたことがある。

 ナポリの話はたったの20ページ足らずなのに、その一方、ローマの記事になると、124ページ近くにも及んでいる。なぜこうも違うかといえば、それはローマが首都であること、古代ローマ時代の遺跡に富むことに尽きるわけだが、息子の留学先がローマ大学であったことも大きかったのだろう。

☆ 欧米の旅(上)のこと。

★ 素一は野上豊一郎と弥栄子の子で、イタリア文学者。ダンテや、ボッカチョの研究、翻訳で名高い。弟子に小松左京などがいる。2001年没。


 また、芸術は爆発の岡本太郎の父、一平はどうとらえているか。それはかれの著「紙上世界漫画漫遊」に詳しい。一平は「婦女界」を主宰する都河氏の依頼で、記事を送信掲載することを条件に、世界一周の旅に出た。米英仏などの記事も面白いが、イタリアはスイスから、鉄道で、サンゴタール峠を越えて、ミラノから入って、ローマ、ベニス、ナポリ、ポンペイと歩いている。

 彼の場合、記事はそれぞれ非常に短いが、もともと絵描きなので*、処々方々に挟んだ挿絵がまた、愉しい。

 弥生子もそうだが、一平も旅行前、イタリアはドロボーの国という注意情報を、だいぶ聞かされていたらしい。ドロボーでは、食堂車へ行く客が、他の客に自分の荷物を預けていく。一平も預けられるが、外人の場合、受け取りに来た人物があずけた人と同一人物かの判定が付きにくい。同行の京都の縮緬屋さんに助けを求めると、縮緬屋さんも困って「さっきの人のようでもあり、泥棒のようにもおます」という答えがまた、何となく可笑しく、自然に笑えてくる。

 一平のゴンドラについての感想。ベニスの代名詞のようなゴンドラにすんなり乗れて「一同にこにこする。」と正直だ。
 

 ナポリでは、感想は短いが、まるで色の交響楽でも聴く思いで、夢見心地のような感想を述べている。ベスビオ山では、噴火口覗きも敢行。ポンペイでは、『小便無用』の掲示に祖国を思い、むかしのパン屋や、ガイドの案内で「ちょっと人前では話せぬ彫刻や絵画」まで、ちゃっかり鑑賞している。

*自分自身、どこかに「画は最も判りよいエスペラント語である」と書いているくらいだ。かれのお手柄をひとつ紹介する。シスコで大ホテルのレストランに案内され、いざ注文となったが、生憎と通訳氏が他の客の世話で手が離せない。そこで一平さん、よおし、わっちが引き受けた、というわけで、ボーイを呼び、メニュー裏に蟹の絵を描き、ジス、ジスとやると、ボーイは一遍で客の注文を理解し、すぐさま旨そうな蟹料理を持って現れたという。さすがである。あっしの絵じゃあ、よくて貧弱なザリガニ、悪くすると、マムシかなんぞを、オッつけられるかも。(-.-)

(つづく)

 


[No.6816] Re: イタリア人は他者の眼にどう映ったか(主として旅行者や作品に) 投稿者:唐辛子紋次郎  投稿日:2014/09/30(Tue) 19:46
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評論家の林達夫さんの旅行記を見つけたので、図書館から借りて読んだが、イタリアを旅行しながら珍しくナポリに足跡を残していない。旅行の目的がイタリアに限られていたわけでなく、あとスペインにも回っている。ホントウに見たかったのは、むしろ後者だったのかもしれない。(事実、林さんがスペインのフェリペ2世に、並々ならぬ関心を持っていたという証言がある。)

 あっしがこの本を手に取った理由の一つは、発行所が神田の「イタリア書房」であり、ここは若い頃よく立ち寄った書店であり、この本を読んで知ったのだが、経営者も、あっしの知っている初代はすでに他界し、代替わりをしていた。この本の変わった点は、書名が「林達夫・回想のイタリア旅行」でありながら、著者が田之倉稔氏になっていることだ。著者の田之倉氏は、旅行当時、フランス・イタリアで林さんらのドライバーの役を務めた。現在は演劇評論家として有名であり、著作では、マルコポーロ賞、蘆原英了賞などを受賞している。変わっているといえば、この旅のメンバーはごく私的な人選で、林達夫夫妻のほかは、この本の発行所である出版社、旧知の「イタリア書房」伊藤社長、同書店の大家さんの松本さんと、本を書いた、この田之倉さんの3人だった。始めから、大出版社には声を掛けなかったらしい。

 本題からはずれるが、こういう旅もあると云うことで、とくに書き加えた。なお、林氏はその翌年、ふたたびヨーロッパを旅行しているようだが、あっしは、その行先をしらない。あるいは、その内にはイタリアも含まれていたのか。そして、

 さすが大学者の旅は変わっている。フィレンツェのどこへ行ったかというに、これが薬草園。同書ではこの薬草園に、2章30ページ近くを費やしている。ここで驚くのは、イタリア語の専門家で、この本を書いている田之倉さんでさえ知らなかった、センプリチェ、つまり薬草園のイタリア語だが、これを林さんがすでに知っていたことである。また、同地の古書店で、これまた専門でもないのに、田之倉さんの欲しそうな演劇関係の本を、先に見つけて、田之倉さんに教えたりもしている。

 ここでまた。お得意の脱線。逆にかの地で日本、日本人がどう映っているかも、なかなか興味あるテーマである。深くは立ち入らないが、きのうイタリア映画のラブコメディー「踊れトスカーナ!」を見ていて感じたこと。主人公の若い会計士。このひとの着ていたTシャツをみてビックリ。なんとそこには、漢字で「癇癪持ち」。思わず笑ってしまった。この監督は、はたして、漢字の意味を知っていてやっているのか。

 それと、もうひとつ。この映画を注意してみていたら、こんなのがあった。「百武すい星」。で、調べてみると、彗星発見が1996年。映画の製作年も同じ1996年。ということは、当時としては超新しい話題を取り入れているということか。◎いずれにしても、日本がらみのものが一作に二つも出て来るというのは、やはりピエトラッチョーニ監督は、かなりの知日派だったのかも。

 チョット不謹慎だが、この映画で、旅回りのフラメンコ一座のマネジャーが、トスカーナの片田舎で、車を降りて同乗の若い女10名を待たしておいてひとり悠々と道端で立ち小便をするシーンがあった。立ちなんとかは日本人の特権と心得ていたあっしは、ここでかれらに非常な親近感を覚えた。イタリア人と日本人、もしかしたら、どこかで繋がっているのではないか、と。(^^♪

◎ 登場人物の一人が、テレビでこの彗星の存在を知ったと語っている。ただ、さすが、イタリア人らしく、監督はこれを実にうまく映画に取り入れている。主人公が首ったけのスペイン女が、興行上の理由で急遽帰国したので、ついに行ってしまったと嘆くが、それを聞いた相手が、即座に、心配するな、7万年後にはまた、きっと逢えるよと答える。ところで、

 『文は人なり』ではないが、やはり映画作品でも、文学作品でも、作家や監督のひととなりが作品にばっちり反映されるのではないか、と。たとえば、同じ国の作家、アルベルト・モラヴィアの小説では、「ウタマロ」が出てきた。あっしは讀んでいて、日本人全体が好色なのではなく、書いている本人が、もともとそうではなかったかと思った。

 ファッション界に材を取ったある娯楽小説では、たしか、「ヤマモト」というファッションデザイナーが登場していた。これなど、明らかに、山本寛斎をイメージしたものに間違いない。

 選択は自由だが、もし日本、日本人を登場させるなら、なるべく良い役回りを切に願いたいものである。(^^♪

○ 正確には、Giardino dei Sempliciというらしいが。   (終わり)


[No.6834] Re: イタリア人は他者の眼にどう映ったか(主として旅行者や作品に) 投稿者:GRUE  投稿日:2014/10/08(Wed) 14:33
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紋次郎さん、こんにちは、

相当の遅レスです。

相変わらずのなかなかの力作ですね。気に止まったところだけでお許しを。

野上弥生子ですが、懐かしい名前です。彼女は旧姓が小手川、大分県臼杵市
の醸造屋、醤油(フンドーキン)やお酒を造っているお店の娘、お嬢さん。

東京に出て、漱石の弟子だった野上豊一郎(同じく臼杵出身、後に法政大学
総長となる英文学者)と結婚、作家デビュー。

時期(昭和初期)が時期だけに社会性の高い作品が多い。宮本百合子などと
親交あり。

息子が3人。出てくる素一が長男、イタリア文学者、茂吉郎(次男)、耀三
(三男)は共に物理学者。つまり3人とも学者。

昭和10年代後半に欧州に滞在、その時期に書いた「欧米の旅」が紋次郎さん
ご紹介の話でしょうが、大変な時期だけに内容は史的価値もありそう。
長男素一同伴のイタリア旅行記は面白いでしょうね。

ポンペイの話はその通りでしょう。40年以上前でも、開かずの家があったの
ですが、そこの番人が寄ってきて、にやにやしながら寄って来て、鍵を持っ
てるが見るか?と聞く。見当がつき、チップねらいも見える。もちろん、
入って見る。もっとも女性も入ってよかったようだ。

ポンペイは、現場はもちろんだが、多くの遺物はナポリ国立博物館にあった
はず。

弥生子が、ポンペイを見て、浅間山のことを思い出していたというのはさも
ありなんあるいはさすがというべきですね。

ナポリよりローマの記述が5倍もあるというのはそうだろうなと思う。
塩野七生さんではないが、書き始めたらキリがないはず。ローマとはそういう
ところだから。


[No.6836] Re: イタリア人は他者の眼にどう映ったか(主として旅行者や作品に) 投稿者:唐辛子紋次郎  投稿日:2014/10/08(Wed) 22:11
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GRUE さん、みなさん、こんばんは。

>相当の遅レスです。

 あっしも、早かったのは、今日だけです。(^_-)

> 相変わらずのなかなかの力作ですね。気に止まったところだけでお許しを。
> 野上弥生子ですが、懐かしい名前です。彼女は旧姓が小手川、大分県臼杵市
> の醸造屋、醤油(フンドーキン)やお酒を造っているお店の娘、お嬢さん。

>東京に出て、漱石の弟子だった野上豊一郎(同じく臼杵出身、後に法政大学
>総長となる英文学者)と結婚、作家デビュー。

 これは知りませんでしたね。(@_@)この夫婦は同郷なんですか?しかも、同じ臼杵市。

> 時期(昭和初期)が時期だけに社会性の高い作品が多い。宮本百合子などと
>親交あり。

 思想的というより、同性のよしみからでしょうかね。

> 息子が3人。出てくる素一が長男、イタリア文学者、茂吉郎(次男)、耀三
>(三男)は共に物理学者。つまり3人とも学者。

  へえ?優秀な家族なんですねえ。むかし、『親子鷹』という言葉がありましたが…。

>昭和10年代後半に欧州に滞在、その時期に書いた「欧米の旅」が紋次郎さん
>ご紹介の話でしょうが、大変な時期だけに内容は史的価値もありそう。
>長男素一同伴のイタリア旅行記は面白いでしょうね。

 そこらのいい加減な添乗員に比べたら、格段の違いでしょうね。同伴というより、まあ現地ガイドみたような紋ですからね。旅行記も、

 自分のはもう、ケッコウ書いたので、今は専ら人さまのを読むことにしています。昭和10年と云えば、あっしのような者でも、まだ5歳ですから、ずいぶん古い話です。

> ポンペイの話はその通りでしょう。40年以上前でも、開かずの家があったの
>ですが、そこの番人が寄ってきて、にやにやしながら寄って来て、鍵を持っ
>てるが見るか?と聞く。見当がつき、チップねらいも見える。もちろん、
>入って見る。もっとも女性も入ってよかったようだ。

 はっはっは、グルーさんも、なかなか、隅におけませんね。(^^♪

> ポンペイは、現場はもちろんだが、多くの遺物はナポリ国立博物館にあった
>はず。

 そうなんす。当地のナウマン象(の骨格)や、オーストリアはハルシュタットの有名な『ヴィレンドルフのヴィーナス』じゃありませんが、いいものが出るとみんな、中央にもって行っちゃう。これは困ったもんです。

> 弥生子が、ポンペイを見て、浅間山のことを思い出していたというのはさも
>ありなんあるいはさすがというべきですね。

 やはり、昔はスエズ運河を経由しての長旅だったので、そろそろ里心がついたのかも。(^^♪

> ナポリよりローマの記述が5倍もあるというのはそうだろうなと思う。
>塩野七生さんではないが、書き始めたらキリがないはず。ローマとはそういう
>ところだから。

 ある、というより、あり過ぎではありませんか。もう少し少ない方が印象に残るのに、あり過ぎでは、印象が薄れます。(^_-)


[No.6841] Re: イタリア人は他者の眼にどう映ったか(主として旅行者や作品に) 投稿者:唐辛子紋次郎  投稿日:2014/10/11(Sat) 21:23
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あっしがさいきん「文集の部屋」に書いたものを読み直してみたら、どういうわけか#6813でも、#6816でも、薬草園のことに触れていた。

 これはもちろん、意図的ではないのだが、なにか意識の底に薬草とか薬草園のことがあったのかも知れぬ。こじつけだが、息子の嫁が結婚する前住んでいたのが、薬円台(以前は薬園台という地名だった)☆。

 ☆ 江戸時代、この地に幕府直轄の薬草園があったので、この名が付いたということである。

 実はきょう、自宅の書庫で何となく澁澤龍彦の「毒薬の手帖」というのをぱらぱらやっていたら、#6813で書いたラパチーニの小説が載っていた。澁澤によれば、この手の小説はホーソーンだけでなく他にも、ロシアのソログープというのが同じようなのを書いているようだ。澁澤は薬草園と云わず、毒草園といっているが、これが出て来るというだけなら、マルキ・ド・サドの作品にもあるそうである。

 ラパチーニのものもそうだが、毒を少量ずつ摂取するうち、自然に免疫ができ、毒に強い体質が作り出されるという。何故そんなことをするかといえば、西洋の中世では、政敵を屠るために毒殺が大流行した。そこで、たとえ運悪く、毒を盛られたとしても平気な体質を当時のひとが、挙って夢見るようになったのかも知れぬ。

 サリン事件でもそうだが、洋の東西を問わず、人間には、等し並に、毒への嗜好があるらしい。澁澤自身も愛好者であることを『自白』している。

 考えてみれば、毒のある植物なら身近にもたくさんある。埼玉県日高市巾着田などでその群生が見られ、わざわざカメラ片手に大勢の見物客がやってくる、ただ今人気上昇中の赤い花、あのヒガンバナ(曼珠沙華)だって、有毒植物のひとつには違いないのだから。植物を使った殺人事件では、1986年、莫大な保険金の絡んだトリカブト殺人事件がある。