[No.6844]
ヴェズーヴィオの噴火とプリニウス
投稿者:唐辛子紋次郎
投稿日:2014/10/13(Mon) 21:49
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ゲーテは文豪と呼ばれ、一般に文の人であったと認識されているようだが、本人は「色彩論」を著し、色彩についてニュートンの説に反対する態度を表明している。光学についてのプロフェッショナルである株式会社ニコンのHPで、電気通信大學の小林教授が、ゲーテの仕事を大いに評価しているのを発見した。さらに、氏は
上で触れたゲーテの研究から、スーラのポアンティリスムを代表する「グランド・ジャット島の日曜日」などの作品が生まれたとしている。
あっしは、理科方面はまるで紋外漢で、説明はこれ以上はムリだが、上記は専門の科学者の言説なので、ただ鵜呑みにするばかりである。(-.-)
色彩論については、これで打ち切り、そろそろ本題の『ヴェズーヴィオの噴火』に移りたいと思う。鉱物などにも、普通以上の関心を持っていたゲーテは、ヴェズーヴィオに二度登ったとあっしは書いたかもしれない。しかし、今読み直してみると1787年3月20日に、なんと3度目の登山を敢行しているのだ。
普通は一度で済ますはず。学者的な研究心からか、それとも単に好奇心が人一倍強かったのか。異常と云えば異常だ。溶岩の流れ出すところが見たいと云って、上まで上がったはいいが、足下の地面はますます熱くなり、呼吸も困難になって来る。視界も悪くなり、強力に促されて一応降り始めるが、やはり諦められず、今度は他の峰に移動し、洞口をゆっくり観察、その状態を「鍾乳石様の物質ですっかり張りめぐらされていて、その物質は乳頭状や球果状をなして、」などと事細かく観察している。これは物見遊山の観光客の好奇心というより、調査に当たる科學者の研究態度などに似ていないだろうか。
ここであっしは敬愛するゲーテとは決別し、古代ローマのプリニウスへと移る。なにしろ、ポンペイと云えばプリニウスは、逸すべからざる人物である。ゲーテのものは、日付や観察の結果を逐一書きとどめているので、貴重と云えば貴重な記録資料ともいえるが、こちらは、そもそも2000年も前の巨大噴火に言及しているので、その価値ははるかに大きい。
あっしが初めて見たポンペイを扱った本では、岩波の写真文庫で、これは小冊子(新書版より一回り大きいくらい)ではあるが、表紙を含め、全ページにモノクロ写真が入り、解説もまた行き届いていて、非常に好い本だと思う。表紙。裏表紙を広げると、そこにはヴェズーヴィオ門からみた廃墟の有様が見て取れる。そこには正に『死都』の雰囲気が濃厚に漂っている。
本の表題もショッキングである。「死都ポンペイ」という。ポンペイの栄えた時代は古代ローマなので、キリスト教はまだ入らず、イシス(神殿がある)や、ディオニュソス(バッカス)、ヴィーナスなど多神教の時代だった。各人が自由にご神体を選び、いわば念持仏、としていたようだ。
出土したものには、奴隷の、地に這いつくばった焼死体もあり実に気の毒だが、親子の折り重なって、息絶えた遺骸なども涙を禁じえない。そのあと、「花を摘むプシケー」の愛らしい壁画に出会ったりすると、ホッとする。
ところで、プリニウスには二人あり、あっしの取り上げるのは小プリニウスのほうである。紛らわしいので、ふつう博物誌の方で著名な叔父の方を、大プリニウス、甥の方を小プリニウスと呼び慣わしているようである。政治家でもあり、文人でもあった小プリニウスの書簡集には有難いことに邦訳がある。全部で400ページにわたっているが、全10章の内、表題に関係のありそうなのは、第3巻「4大プリニウスの生涯」と第6巻「12叔父の最後」「15ウェスウィウス火山の噴火」くらいのものか。
この書簡は、のちに歴史家となった友人のタキトゥスの依頼で書いたと云われているが、その記述にどの程度の信頼性があるのだろうか。噴火の記述は、すべて彼の実見談ではなく、叔父の従者の記憶と、当時の公的な記録をないまぜにしたものらしい。日付も欠けている様で、今日的な見地から云えば、多少資料的価値は下がる。しかし、他にこの種の記録がマッタク残っていないのだから、やはり貴重だと云える。
それを裏付けることが一つある。それは、今日の火山学でこの種の噴火を『プリニー型噴火』というが、これは小プリニウスに因んだものである。なお、この詳細については、金子史朗氏の「ポンペイの滅んだ日」に詳しい。(つづく)
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