般若心経の解説書は星の数ほどあるといっていいくらい。
いま見ているのは 図解雑学般若心経(ナツメ社) である。
色即是空 (形あるものはそのままで実体なきものであり、) 空即是色 (実体がないことがそのまま形あるものとなっているのだ。) ....... 乃至無老死 (ということからはじまって、ついには老と死もなく) 亦無老死尽 (老と死がなくなることもないことになる。)
さて 私が問題にするのは そのあとの 「無苦集滅道」 である。
無苦集滅道 (苦しみも、その原因も、それをなくすことも、そしてその方法もない。)
なおカッコ内の訳は、ひろさちや訳である。
そもそも 苦集滅道とは釈迦の見つけた苦・集・滅・道という四諦のことである。
釈迦は王宮から外に出て病人や死人などの姿を見る。 釈迦は人間社会において、老・病・死などの苦しみが無限に存在していることに気がついた(苦諦 くたい) なぜそんな苦しみが生じるのかといえば、そのような現象に執着する煩悩があるからであり、それが苦しみを生み出す原因となっている(集諦 じったい) そこで、この原因(執着)を滅してしまうと、煩悩がなくなったところにやすらぎの世界が自然に現れてくる(滅諦 めったい) そのためには、正しい見解(正見)や正しい修行(正行)などの8つの正しい道(八正道)を実践することが必要である(道諦 どうたい)
苦・集・滅・道という四諦は因果的なつながりを示している。 ただ、執着のない空の究極的立場からいえば そこには肯定的にいわれる四諦すら固有の本性としては存在しないと考えるべきである。そうこの本にも述べてある。
しかし、四諦は釈迦の発見した真理であり (唐辛子 紋次郎さんも書いている)ホテルに置いてある仏典にも ちゃんと書いてある歴史的出来事なのである。
私はどうして この歴史的な事実の四諦を般若心経で否定しているのか 長い間わからなかった。
だがある本に 般若心経は大乗仏教の立場で述べているから 釈迦のはじめた、いわゆる小乗仏教を否定しているのだと書いてあった。
小乗仏教(正しくは上座部仏教)では、すぐれた能力のある修行者しか悟りをひらかれず 無力な多数の庶民を救おうとすれば大乗仏教しかないのだから 四諦というような修行は三蔵法師のような偉いお坊さんに任せなさい いっさいは空なのだ、この世はすべて無常なのだと考えて 何ごとにもとらわれず生きなさいと勧めているわけです。
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