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[No.44] 太宰治 投稿者:男爵  投稿日:2011/11/05(Sat) 08:11
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太宰治の作品では
「駈込み訴へ」が意外な視点であり
ユダの口から語られる話となっていて
なるほどそういう解釈もあるのかと思った。
ユダはキリストが大好きだった。それが裏切られたから憎しみも強くなった。

「トカトントン」もほかの太宰の作品とくらべて
常識的な面があるという印象だった。
この方面をしっかり日常生活において身に着けていたら
彼も自殺しなかったのではないかと思いたいのだが.....


[No.46] Re: 太宰治 投稿者:   投稿日:2011/11/05(Sat) 10:04
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男爵さん

「走れメロス」も、太宰の素直で明るい面が出ていると思います。
本当はこれを書くくらい、素直で明るいお坊ちゃんだったのでしょうけど
いろいろなことから屈折しちゃったのでしょうね。
学生時代、私は太宰を全部読みました。
今でも好きです。


[No.47] Re: 太宰治 投稿者:男爵  投稿日:2011/11/05(Sat) 10:23
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ぷわらさん

> 「走れメロス」も、太宰の素直で明るい面が出ていると思います。
> 本当はこれを書くくらい、素直で明るいお坊ちゃんだったのでしょうけど
> いろいろなことから屈折しちゃったのでしょうね。

「走れメロス」は良い作品です。
こういう作品ばかり書いていたら
太宰の評価もまた違ったものになったでしょうけど。
こういう面もあったし、また違う面もあったということでしょうか。


[No.50] Re: 太宰治 投稿者:男爵  投稿日:2011/11/05(Sat) 16:01
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太宰は人間的なあまりに、無責任無計画な面を強調されすぎたが、
彼をよく知る友人は、彼の真面目さや計算して小説を書いていたことを
述べています。

たとえば
「彼は日常生活が実に勤勉であった。
午前中にはきちんと原稿を書き、午後には読書や交友、そして
夜は全く野放図に酒を飲んで楽しむという風であったが、それが
実に規則的なのだ。外観はだらしなくみえるし、事実彼はだらしなそうに、
つまり無頼派風に振舞ったけれど、それは彼にとっては友人への
奉仕であり、根は勤勉で実直な人であった。 」
     (亀井勝一郎)

太宰治の書き下ろし長編小説「惜別」がある。
昭和20年9月刊。日本文学報国会の募集で、
資料集めや切符人手、印税、用紙割り点てなどの便宜が
図られる好条件で、執筆希望者は約50人に上った。

太宰や高見順ら5人が選ばれたが、作品を完成させたのは
太宰と森本薫2人だけだった。

太宰治は「惜別」を書くため魯迅の資料を集めようと
仙台の河北新報社、東北大学などを訪れ、関係者から取材したのであった。

 太宰研究家宮城県の工業高校干葉正昭先生も書いているように
 「大宰は伝記的、思想的には魯迅を描くことはできないと思っていた。
 そうではなく、魯迅に自分白身を重ね、医学という実学から芸術への転換に
 価値を見いだす人間の苦悩、文学の有効性を描きたいと考えた」
 のであろう。

 しかし、魯迅研究の第一人者、竹内好らは「惜別」が事実に基づいた内容
 ではないことを指摘して、「主観だけででっち上げた魯迅像」
 「失敗作」などという評価をくだした。
 そのためこの作品は長い間葬られていた。
 近年ようやく魯迅研究としてではなく、文学の立場から
 真価が語られるようになった。

 早稲田大東郷克美教授は「一つの事件がきっかけではなく、
 日本の友人らとの交遊の中で、文学に目覚めていくというのは、
 太宰なりの魯迅解釈である。
 友人がうまく描けているし、大宰の文学観もしっかり盛り込まれている。」
 と語り、「惜別」は見直されるべきであると述べている。

 ”国策小説”を求められながら、社会的、政治的意図を排除、
 魯迅に自分を重ねて”文学至上主義”を唱えてみせた太宰の能力はたいしたもの。
 当時の多くの制約の下で、時局への迎合も批判も避け、純粋な文学作品を
 作り上げた手腕は、やはり高く評価されるべきであろうと思われる。

無責任、いいかげんな男というイメージは
太宰自身の計算あるいは計画的な意図があってのこと
だったかもしれない。
太宰はきちんとしていた面がたしかにあった。


[No.51] Re: 太宰治 投稿者:男爵  投稿日:2011/11/05(Sat) 19:37
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Re: 太宰治
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太宰治の妻の書いた
本を読むと
太宰治の仕事を手伝ったことが述べられている。

口述筆記をしたり
太宰から女主人公の服装のことを質問され
妻のアドバイスが成功したり
はんたいに妻のいうことを聞かない太宰の判断で小説の効果をあげた
ということが妻の目から書かれている。

妻は冷静に作家太宰の能力を評価している。

ただ
戦争中に太宰の実家に疎開したとき
その旅は子連れで辛いものであった。

やっと五所川原が近くなったとき
太宰はわざわざ遠回りで五能線コースを選んだ。

妻は太宰の気持ちは理解したが
とても疲れていて、暗い深浦の町をいつ宿に着くのかと
重い足どりであったことを述べている。