太宰は人間的なあまりに、無責任無計画な面を強調されすぎたが、 彼をよく知る友人は、彼の真面目さや計算して小説を書いていたことを 述べています。
たとえば 「彼は日常生活が実に勤勉であった。 午前中にはきちんと原稿を書き、午後には読書や交友、そして 夜は全く野放図に酒を飲んで楽しむという風であったが、それが 実に規則的なのだ。外観はだらしなくみえるし、事実彼はだらしなそうに、 つまり無頼派風に振舞ったけれど、それは彼にとっては友人への 奉仕であり、根は勤勉で実直な人であった。 」 (亀井勝一郎)
太宰治の書き下ろし長編小説「惜別」がある。 昭和20年9月刊。日本文学報国会の募集で、 資料集めや切符人手、印税、用紙割り点てなどの便宜が 図られる好条件で、執筆希望者は約50人に上った。
太宰や高見順ら5人が選ばれたが、作品を完成させたのは 太宰と森本薫2人だけだった。
太宰治は「惜別」を書くため魯迅の資料を集めようと 仙台の河北新報社、東北大学などを訪れ、関係者から取材したのであった。
太宰研究家宮城県の工業高校干葉正昭先生も書いているように 「大宰は伝記的、思想的には魯迅を描くことはできないと思っていた。 そうではなく、魯迅に自分白身を重ね、医学という実学から芸術への転換に 価値を見いだす人間の苦悩、文学の有効性を描きたいと考えた」 のであろう。
しかし、魯迅研究の第一人者、竹内好らは「惜別」が事実に基づいた内容 ではないことを指摘して、「主観だけででっち上げた魯迅像」 「失敗作」などという評価をくだした。 そのためこの作品は長い間葬られていた。 近年ようやく魯迅研究としてではなく、文学の立場から 真価が語られるようになった。
早稲田大東郷克美教授は「一つの事件がきっかけではなく、 日本の友人らとの交遊の中で、文学に目覚めていくというのは、 太宰なりの魯迅解釈である。 友人がうまく描けているし、大宰の文学観もしっかり盛り込まれている。」 と語り、「惜別」は見直されるべきであると述べている。
”国策小説”を求められながら、社会的、政治的意図を排除、 魯迅に自分を重ねて”文学至上主義”を唱えてみせた太宰の能力はたいしたもの。 当時の多くの制約の下で、時局への迎合も批判も避け、純粋な文学作品を 作り上げた手腕は、やはり高く評価されるべきであろうと思われる。
無責任、いいかげんな男というイメージは 太宰自身の計算あるいは計画的な意図があってのこと だったかもしれない。 太宰はきちんとしていた面がたしかにあった。
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