> 五木寛之が深夜ラジオ便で > 語り、当時の流行歌をかけて聴く番組であった。
> 五木の父親はさらに出世して、平壌の師範学校の教官となる。 > 五木は山手小学校に通う。
昭和20年に平壌の一中になんとか入学する。 戦局は厳しくなり、女の直感で母親は「連合艦隊の司令長官まで死ぬんじゃもう日本は負けるんじゃないかしら」と言う。そして父に殴られる。
玉音放送、ソ連兵の略奪、家は摂取され下町の銭湯の二階に他の日本人たちと一緒に住む。 9月20日にそれまで病気だった母親は死ぬ。 五木は何もしない父に代わって、弟や妹のためにもソ連軍の将校の家に行って薪割りや掃除をしたりして黒パンや肉の塊をもらってくる。
このあたり思い出したくない話したくない五木も、時間がたってようやくぽつりぽつりと語り出している。 「国境の町」や「雨に咲く花」などが心を支えてくれた。
略奪のソ連兵の思い出の他に、歌の好きなソ連兵の歌う歌「イギリス人は利口だから、水や火など使う。ロシア人は歌を歌い、自ら慰める」が印象に残っている。 たぶん彼らも異国で故郷を思い出していたのだろう。 考えてみれば彼らも異国で働かされた兵士たちだったのだ。
帰国をまつ日本人たちは、昭和初期の流行歌を歌い慰め合っていた。 「野崎小唄」も歌われた。
それからやっと苦労して韓国に入ることができ、引き揚げ船に乗ることができた。 船員たちから、いま内地で流行っている歌だとして「青い背広で」を教えられる。 博多港では検疫のため足留めをくらう。いつ上陸できるだろうと心配する彼らに 船員たちは明るい「リンゴの唄」を教えてくれた。 五木寛之は「かえり船」を聞くと、日本に帰ってきたことを思い出すという。
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