[掲示板へもどる]
一括表示

[No.505] わが人生の歌がたり 投稿者:男爵  投稿日:2011/12/10(Sat) 09:20
[関連記事

五木寛之が深夜ラジオ便で
語り、当時の流行歌をかけて聴く番組であった。

五木寛之は昭和7年に九州で生まれ
地方の師範学校出の父が新天地を求めて
一家で朝鮮半島に渡る。
 昭和7年の歌は「影を慕いて」である。これが彼の誕生のBGMだった。

朝鮮の全羅道の淋しい村に住んでいたので、そこでの日本人は巡査と五木の家族だけだった。
村の子どもたちと遊んだので五木は知らず知らず朝鮮語を覚えた。
あとで彼はソウル出身の韓国人女性に知っている言葉のいくつかを言うと、彼女は「それは上品な言葉ではありませんね」と言う。彼女はソウルの上流階級の出身だった。
 「アリラン」と「トラジ」を朝鮮語で歌っていた五木。

五木が覚えている青空に舞うブランコの上のチマチョゴリと、パンソリを朗々と語るおじいさん。
いつか、あのおじいさんのように、物語を語ることで人々を感動させたり喜ばせたりする仕事をしたいと思った。

やがて父親は検定試験に合格し、ソウルの南大門小学校に勤務する。
母の好きな歌は「城ヶ島の雨」や「花嫁人形」だった。
そのころ国家総動員法が成立(昭和13年)、「雨のブルース」や「暗い日曜日」が印象に残った。
  「暗い日曜日」
http://duarbo.air-nifty.com/songs/2007/09/post_c77a.html

五木の父親はさらに出世して、平壌の師範学校の教官となる。
五木は山手小学校に通う。
昭和15年の「湖畔の宿」、おなじく高峰三枝子が歌った「南の花嫁さん」

ギリシャの哲学者プラトンの言葉
「歌や音楽は恐ろしいものだ。聞く人を無意識のうちに感化して、その人の感受性や思想まで買えてしまう」
五木のような子どもたちも、「加藤隼戦闘隊」や「予科練の歌」などを聴いているうちに、いつのまにか自分たちも1日も早く少年飛行兵になりたいと考えるようになった。

「麦と兵隊」は軍歌ではあるが、何度聴いても哀愁にみちたいい曲である。
悲壮美というか、「平家物語」の世界を連想させるような名曲である。
驚くのは歌詞の内容で、士気を高揚させて戦地へ向かうのではなく、負傷した友を背中に背負って、黙々と進んでいく光景である。なんとも言えない兵士の鬱屈した感情がこもっていて、単なる戦意高揚歌ではない。

歌に国境はないとか政治的イデオロギーはないというが、そんなことはない。
歌にも国境はあるし、時代ごとの政治とか状況が深くかかわっている。
でも歌っていた私たちには、その歌声がイデオロギーとは関係なく
とにかく懐かしいものとして聞こえてしまう。これが歌の怖いところであるし
いけないと知りながら、懐かしい気持ちにさせられてしまう。
そこが、歌の「憎い」ところでもある。


[No.511] Re: わが人生の歌がたり 投稿者:男爵  投稿日:2011/12/10(Sat) 11:01
[関連記事

> 五木寛之が深夜ラジオ便で
> 語り、当時の流行歌をかけて聴く番組であった。

> 五木の父親はさらに出世して、平壌の師範学校の教官となる。
> 五木は山手小学校に通う。

昭和20年に平壌の一中になんとか入学する。
戦局は厳しくなり、女の直感で母親は「連合艦隊の司令長官まで死ぬんじゃもう日本は負けるんじゃないかしら」と言う。そして父に殴られる。

玉音放送、ソ連兵の略奪、家は摂取され下町の銭湯の二階に他の日本人たちと一緒に住む。
9月20日にそれまで病気だった母親は死ぬ。
五木は何もしない父に代わって、弟や妹のためにもソ連軍の将校の家に行って薪割りや掃除をしたりして黒パンや肉の塊をもらってくる。

このあたり思い出したくない話したくない五木も、時間がたってようやくぽつりぽつりと語り出している。
 「国境の町」や「雨に咲く花」などが心を支えてくれた。

略奪のソ連兵の思い出の他に、歌の好きなソ連兵の歌う歌「イギリス人は利口だから、水や火など使う。ロシア人は歌を歌い、自ら慰める」が印象に残っている。
たぶん彼らも異国で故郷を思い出していたのだろう。
考えてみれば彼らも異国で働かされた兵士たちだったのだ。

帰国をまつ日本人たちは、昭和初期の流行歌を歌い慰め合っていた。
「野崎小唄」も歌われた。

それからやっと苦労して韓国に入ることができ、引き揚げ船に乗ることができた。
船員たちから、いま内地で流行っている歌だとして「青い背広で」を教えられる。
博多港では検疫のため足留めをくらう。いつ上陸できるだろうと心配する彼らに
船員たちは明るい「リンゴの唄」を教えてくれた。
五木寛之は「かえり船」を聞くと、日本に帰ってきたことを思い出すという。


[No.525] Re: わが人生の歌がたり 投稿者:男爵  投稿日:2011/12/12(Mon) 16:13
[関連記事

> > 五木寛之が深夜ラジオ便で
> > 語り、当時の流行歌をかけて聴く番組であった。

五木寛之は美空ひばりを高く評価していた。

 一時期、「美空ひばり論争」というものがあって、羽仁五郎さんなどの進歩的な文化人の間で、「美空ひばりのような歌い手が、大衆に好まれている間は、日本もまだ本当の文明国ではない」という議論が盛んに交わされました。そのころ私はずいぶん頑張って、美空ひばりさんの歌を擁護したものです。
 心のなかでは口ずさみながらも、流行歌が好きだなんてインテリは言いづらい時代でもありました。大学の先生で、美空ひばりが大好きな人が、家のなかでは熱心に聴いていても、お客が来ると慌ててラジオを消して歌声が漏れないようにしたなんて話があるくらいです。
 その後、「思想の科学」という評論誌などで、歌謡曲論が展開されるようになって、寺山修司さんなどが、積極的に擁護する発言をしたり、歌謡曲の詞を書いたりするようになってから、少し変わってきました。それでも、私が小説家になってから、藤圭子という歌手を絶賛したときには、「なんだ、作家が流行歌手のお先棒を担ぐのか」と、みんなからずいぶん笑われたことがありました。

そういうわけで、五木寛之は
この時代に突然登場した美空ひばりの「悲しき口笛」をあげて
音程の正確さとか、微妙に音程をずらす、そのずらし方とか、リズム感とか、言葉の表現力、声量、音域の広さ、どれをとっても歌手としてすごい技術の持ち主で、天賦の才があったとほめている。

歌謡曲は大衆芸術で、芸術といえるものではない、芸術とは西欧のクラシックみたいな高尚な音楽だというは、どうも日本特有の考え方のようである。

たとえば、タンゴとかジャズなど、貧しい下層階級の間で生まれたとされるが、世界で通用する音楽芸術である。

音楽を芸術的なものと大衆的なものにわける日本特有の見方は
西洋にはないということを、西條八十や古賀政男などもものの本に書いている。

同様のことは、加太こうじも書いている。
「.....同じ歌をテナーの藤原義江が歌うと芸術になり、芸者の市丸が歌うと芸術ではないというのは、芸術主義者やプチブルが芸者や民衆を軽視しているから勝手にそうきめたのである。ここからが芸術、ここからが非芸術という区別はできないのに、自分に都合のいい芸術だけを認めているのだ。.....」
http://www.mellow-club.org/cgibin/free_bbs/11-semi5/wforum.cgi?no=519&reno=518&oya=518&mode=msgview

文学の世界もしかり。
高校の英語で、教科書のデュマの「モンテ・クリスト伯」を読んだとき
英語の先生は、欧米では日本のような、純文学と大衆小説という区別はない
と教えてくれました。

明治になってそれまでなかった西洋の文学や音楽などの文化を輸入したとき
いわゆる日本の文化人が自分の考えで、これは高級、日本のはそうでないから低級と
分けてしまったようです。
 舶来主義といってしまえばそういうことなのかもしれません。