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[No.742] 人さらいのこと 投稿者:男爵  投稿日:2011/12/24(Sat) 07:52
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山折哲雄:日本人の宗教感覚、NHKライブラリー

東北大助教授から国立歴史民俗博物館教授となった宗教学者です。
NHK人間大学(1996.4−1996.6)
の講義「日本人の宗教感覚」からとっているようです。

数年前のこと、ちょうど60歳をこえた著者は、
近所の公園でたまたま出会った女の子と目があった。
思わずニコッと笑いかけた、その子の顔もいちどに花開いたように
ほころび、最高の微笑みがかえってきた。
なんという至福の瞬間だったことか。

それまで彼は子どもというものはあまり好きでなかった。
ときに意味不明なことをいう子ども、ときに残酷なことを
したり言ったりする子ども。それが何となくうっとおしかった。
それが、この経験でいっぺんに変わってしまった。

この著者は子どもを見つけるとニコッと微笑みかけ、
至福の瞬間を心待ちにするようになってしまった。

あるときのこと、この宗教学者は例によって街角で子どもを
みつけて、微笑みかける。
するとその子どもは近寄ってきて、可愛い表情をして
宗教学者を見上げるではないか。

彼が歩きはじめると、その子どももついてくる。
いつのまにか彼と並んで歩き出す気配。
何とも楽しい気分だったが、若い母親がすっ飛んできて
その子どもは腕をひっぱられ、彼から引き離された。

つまり、彼は人さらいと間違えられたのだった。

よく考えたら、いたしかたのないことだった。
世間にはこわい事件がいっぱいある。
あの血相を変えて飛んできた母親に微笑みかける心の余裕は
この宗教学者にはなかった。

もしもその母親にも微笑みかけたら、どうだったろうか。
妙な誤解をうける危険性があったかもしれない。

しばらく時がたってから、彼は反省したという。
そのとき彼は、ひょっとすると「人さらい」の心境に
かなり近いところにいたのではないかと思ったから。

というのは、その宗教学者は、その子どもをいつのまにか、
自分の世界のほうに惹きいれようとしていたからなのだ。
その子どもを父や母の家族の世界から、白昼夢のような
自分の世界へと引き離そうと、無意識のうちに考えていたからである。

そのとき彼は、僧というものの運命のようなものを頭に
描いていたという。僧とは、一種の人さらいかもしれない、と。

人さらいであるとするならば、僧の周辺にはいつも
懐疑と不安のまなざしが外部から突き刺さっているのではない
だろうか。ひょっとしたら、僧であり続けるならば、
避けることのできない悲しみなのかもしれない。

それにもかかわらず、その悲しみという犠牲において、
僧はいつでも至福の瞬間を手にすることができるのではないか。
そう漠然とこの宗教学者は思うのであった。

実際に歴史をふりかえるなら、最澄の弟子は、密教の勉強をするため、
最澄の推薦状をもらって空海のところに行き、勉強するうちに
二度と最澄の元に戻ってこなかった。
最澄は、空海のことを人さらいと思ったであろう。

カルト集団とも新興宗教とも、世間からレッテルをはられた
宗教集団に、家族を捨てて走っていった若者たち。
女優○○の走った某宗教団体も、家族からすれば人さらいと
思ったであろう。

もっとも、さらわれた若者たちや学生たちも、彼らを教育指導する師という存在も、
世間の人も皆納得していれば、その人さらい行為は公式に認められる
ものでありましょう。


[No.743] 日本の宗教の未来 投稿者:男爵  投稿日:2011/12/24(Sat) 08:01
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> 山折哲雄:日本人の宗教感覚、NHKライブラリー

日本は中国から多くのことを学んできた。
仏教もそのひとつである。
大乗仏教と小乗仏教、顕教と密教、いろいろな宗派や教義がある。
そして、日本人が仏教から受け取ったものは、無常観と浄土観ではないだろうか。
それに加えて、「空」とか「無」の考え方に強く引きつけられたのだと思う。

儒教の教えの中から受け取った一番重要なものは、自己修養ではなかったろうか。
身を修めること。自己訓練といってもいい。

キリスト教の場合は、近代西洋の思想として、個人主義を
新しいものとして受け入れたのではないか。

それらの、「無常観、浄土観、空、無」「自己修養」「個人主義」を積極的に受け入れ、それらをうまく重層化させた。
そして、それらの3系統の思想を意識の底で支えているのが神道的な感覚ではないだろうか。

神道というのは、宗教ともいえず、思想ともいえず、極度に柔らかな自然感覚でみたされた世界である。
この柔軟なかつ自然との神道的共鳴感覚、これが日本人の世界観の特徴であろう。
神道は日本古来のものであり、一種のアミニズムともいえる。あるいはシャーマニズムと重なる領域もある。
(シャーマニズムは日本だけでなく、韓国やモンゴルや満州族にも見られるものである)

天地万物に神が宿るという考え方。 教祖も教義もない。みようによっては多神教、あるいは汎神教。
ユダヤ教、キリスト教、イスラム教のように一神教からすれば、無神論的世界とされるかもしれない。
 いわば日本教。

しかし、この日本教にひそむ多元的価値の「共存」ということを考えるなら、
最近の地球環境の問題やエコロジーの思想にみられる「共生」は
まさに日本の宗教世界における多元的思想の共存の伝統の正当性を
認めることにはならないだろうか。

地球上では、宗教や民族の違いによる紛争や戦争がおこっている。
外国の宗教ではそれらの争いは解決できないようである。
少なくとも攻撃的な自己主張をする宗教は、21世紀をみちびく宗教
たりえなくなっているように思われる。
人類の普遍的宗教が生まれるとしたら、日本の伝統的なパランスのとれた宗教感覚が、新しい世界宗教の創設にあたって一つの貢献をはたすのかもしれない。
(おもしろい考え)


[No.744] ご詠歌から歌謡曲まで 投稿者:男爵  投稿日:2011/12/24(Sat) 08:14
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> > 山折哲雄:日本人の宗教感覚、NHKライブラリー

この著者はチベットやインドや中国を取材調査のため旅行して
おもしろいことを書いている。

BGMとして
平地(四川省成都)では美空ひばり
4千メートルの高地(ラサ)では山口百恵
8千メートルの山頂では都はるみ
でその理由
 美空ひばり 日本人の心を歌う、そしてアジアでは普遍的
 山口百恵 高度4千メートルではも酸素が希薄で空気はカラカラに乾いている。
   ここでは「悲しい酒」はあわない。「プレイバック」の天空にぬけていく軽やかなリズムが喜ばれる。
 登頂の最後のアタックのときには、都はるみの力強いうなり節が元気をつけてくれる。
    8千メートル級の山では、百恵の「コスモス」でも、ひばりの「川の流れのように」でもやはりダメ。

日本の仏教音楽は「声明(しょうみょう)」であり、これはインドにはない。
声明には大きく分けて、朗誦的なもの(語り物的声明)と詠唱的なもの(歌い物的声明)の2つがある。
あるいは、叙唱的なものと歌謡的なもの。

この声明における「語り」的な要素と「歌い」的な要素が、それ以後の日本の芸能や音楽に、多くの影響を与えてきた。
声明から庶民信仰のクライマックス的なご詠歌まで
その伝統的音楽の流れの中に、浄瑠璃や義太夫、長唄や新内、浪曲などが生まれ
声明からご詠歌にいたるペシミスティックな情感の調べが、現代の演歌にまで及んでいる。

仏教徒の俗曲としてのご詠歌は、本来、死者を追悼する歌であるから、
愁嘆的情緒をもち、また、仏教そのものの諦観的な世界観にひそむ
ペシミスティックな情感を背景にもっていた。

このご詠歌の
もつ詠嘆調は、濃淡の差こそあれ、日本の伝統歌曲のほとんどすべてに
感性的影響をあたえてきたものであり、またそれが、今日の日本の
民衆歌曲の特徴のひとつになっているとさえ思う。
ときには
生命であるかのようにいわれているとも思う。
(園部三郎、日本の流行歌)