野原一夫: 回想 太宰治、新潮社
著者は浦和高校時代から太宰にあこがれ三鷹の自宅に押しかける。 東大独文科を卒業してから新潮社に入り 上司から太宰の原稿をとるよう命令され 太宰に手紙を書いて、あの「斜陽」を連載することになる。
興味深いのは 昭和22年の秋に この著者の世話で若い文学青年たちが太宰を訪ねたことがあった。 文学仲間に亀井勝一郎と親しくしていた者もいて、亀井も連れて行くと言ったら 太宰は喜んだ。 (亀井勝一郎は太宰治の理解者である)
どういうわけか三島由紀夫がその中にいた。
みんなと楽しく話をしているとき 酒を飲まずひとり神妙な顔をしていた三島が、森鷗外の文学について 太宰に質問したような記憶がある。太宰はその質問にまともに答えず、 なにかはぐらかすようなことを言った。高原紀一の記憶によると 「鷗外もいいが、全集の口絵のあの軍服姿は、どうもねえ」と太宰は 顔を横に向けて呟いたという。
そのあとの三島の反応を著者は鮮明に記憶している。 「ぼくは、太宰さんの文学はきらいなんです」まっすぐ太宰の顔を見て、にこりともせず言った。 一瞬、座が静かになった。 「きらいなら、来なけりゃいいじゃねえか」 吐き捨てるように言って、太宰は顔をそむけた。
三島は昭和38年に書いた「私の遍歴時代」というエッセイのなかに そのことを書いている。
三島が太宰と会ったのは、「斜陽」の連載がおわった昭和22年の秋で 「希有の才能は認めるが、最初からこれほど私に生理的反発を感じさせた作家もめづらしい」と書く。 「斜陽」も三島には気に入らない。「言葉づかひといひ、生活習慣といひ、私の見聞していた戦前の旧華族階級とこれほどちがった描写を見せられては、それだけでイヤ気がさしてしまった」
「 ーーー そんなこんなで、私の太宰文学批判があんまりうるさくなってきたので、 友人たちは、私を太宰氏に会はせるのに興味を抱いたらしかった。矢代氏や その友人たちは、すでに太宰氏のところへたびたび出入りしてゐて、私をつれて行くのは造作もなかった」
そして昭和22年の秋に太宰と会うことになるのだが、その時期に関して 三島は記憶違いをしている。 三島たちが太宰と会ったのは、津軽から帰ってきて間もなくの22年1月であり 「斜陽」はまだ構想の段階にすぎなかった。「斜陽」が「新潮」に連載されはじめた のは、その年の7月からである。
そして、また矢代氏やその友人たちが太宰に会ったのは、昭和22年1月が最初で それまで出入りしていたことはなく、これは三島の勘違いであろう。
三島はつぎのように書いている。 「私は来る道々、どうしてもそれだけは口に出して言はうと心に決めてゐた一言を、いつ言ってしまはうかと隙を窺ってゐた。それを言はなければ、自分がここへ来た意味もなく、自分の文学上の生き方も、これを限りに見失はれるにちがひない。 しかし恥ずかしいことに、それを私は、かなり不得要領な、ニヤニヤしながらの口調で、言ったやうに思ふ。即ち、私は自分のすぐ目の前にゐる実物の太宰氏へかう言った。 『僕は太宰さんの文学はきらひなんです』 その瞬間、氏はふっと私の顔を見つめ、軽く身を引き、虚をつかれたやうな表情をした。 しかしたちまち体を崩すと、半ば亀井氏のほうへ向いて、誰へともなく、『そんなことを言ったって、かうして来ているんだから、やっぱり好きなんだよな。なあ、やっぱり好きなんだ』 ーーー これで、私の太宰氏に関する記憶は急に途切れる」
同席していた著者からすれば、著者の記憶とはかなり違う。 著者によれば、そのときの三島の顔つきは鮮明に覚えているが、三島が眉ひとつ動かさず、能面のような無表情だったという。 かなり緊張していたのではなかろうか。その口調は、はっきりしていたが、声の抑揚がなく、棒読みのような感じだったという。
そのあとの太宰の返事は、著者によれば、「きらいなら、来なけりゃいいじゃねえか」と言ったという。 あるいは、そう言った後に、三島が記憶していたようなことを、太宰が言ったかもしれないが、もし言ったとすれば、その場の空気を白けさせないために、太宰が無理して言ったのではないかと著者は説明する。
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