[No.592]
Re: お酒の本
投稿者:男爵
投稿日:2011/12/16(Fri) 05:34
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唐辛子 紋次郎 さん
> かれは、もとのゲール語の発音をウシュクボーと書いているし、さんらく亭さんのはウシュク・ベーハだし、開高さんはウイスゲ・ベーハー(「地球はグラスのふちを回る」)になっているし、藤本義一さんの本では、さんらく亭さんと同じになっていました。いずれにしても、ゲール語って、すごく難しそう。(-_-;)
>
> この藤本さんというのが、あっしはてっきり小説家と思っていたのが大間違いで、サントリー宣伝部の人と知って驚きました。道理で、表紙カバーが柳原良平の絵になっていたわけだ。(*^_^*)
藤本義一 (作家)
藤本 義一(ふじもと ぎいち、1933年1月26日 - )は、日本の小説家、放送作家。大阪府堺市出身。
日本放送作家協会関西支部長であり、プロ作家を育成する心斎橋大学総長も務める。夫人はタレントの藤本統紀子。
私立浪速中学に入学、少年飛行兵を目指して1945年5月に航空機搭乗員養成所に入るが、終戦となる。終戦時には入院していた両親に代わって闇市でレポ屋として家計を支えた。新制浪速高校に進み、立命館大学法学部に入学するが、中退。浪速大学(現大阪府立大学)に入学し、教師を目指し教育学部に在籍、教育実習で現場教師が虎の巻を見ながら授業をしているのをみて幻滅し経済学部へ転部。もともと演劇好きで演劇部・拳法部に入るが、役者より劇作家の方を志し、在学中から数十編のラジオドラマ、その他の脚本を書いており、卒業前年の1957年に執筆したラジオドラマ作品『つばくろの歌』で同年度の芸術祭文部大臣賞戯曲部門を受賞。次席が井上ひさしで「東の井上ひさし、西の藤本義一」と呼ばれるほど、早くからその才能は高く評価されていた。
その後テレビドラマ脚本を経て、宝塚映画撮影所、続いて大映に入社、衣笠貞之助の脚本の手伝いもする。川島雄三監督に師事して脚本の手伝いをし、『暖簾』や、木村恵吾、市川崑らの作品も手伝う。1961年に『貸間あり』で共作者となり、駅前シリーズ、悪名シリーズ等の脚本を手がけ、頭角を現していく。
1965年から始めた『11PM』(日本テレビ放送網・讀賣テレビ放送共同製作)での大阪制作分のキャスターにより、一躍知名度を高める。放送開始から1990年の終了までの25年に渡って毎週2回を担当し、休んだのは3回だけ(あらかじめ特番になった場合による休止は別)だった。
1974年に上方落語家の半生を描いた『鬼の詩』で第65回直木賞受賞。以後文芸作品からエッセイ、社会評論などの著作を多数発表する。
藤本義一 (洋酒研究家)
1927年(昭和2年)、兵庫県神戸市に生まれる。幼少時から詩作に親しむ。戦時中は兵役に採られたが、復員後は古書店の経営を始め、1946年(昭和21年)に詩人の竹中郁の薦めで同人詩誌『航海表』を発刊する。1948年(昭和23年)、こどもの詩誌「きりん」の編集部に就職。当時の編集部には師竹中郁のほか井上靖らがいた。数年後「きりん」が一時的な休刊となり、藤本は同じく雑誌社の太陽社に転職。「太陽」の廃刊に伴い、神戸市の社会教育課に移った後に広告業界に入る。スモカ歯磨とさくらクレパスの編集者を経て、1959年(昭和34年)に株式会社壽屋宣伝部に入社。1965年(昭和40年)に東京に転勤。社内報『まど』に洋酒に関する記事を発表する一方、開高健らとともにベ平連に参加し、反戦運動にも力を注ぐ。 1973年(昭和48年)、サントリー在職中のままワイン相談室長を兼任し、日本ワイン協会専務理事を務めたほか、日蘭学会、蘭学資料研究会、日本風俗史学会の会員なども歴任した。1960年代後半からワインに関する著書を数多く発表し、洋酒の普及紹介に努めた。1999年10月18日、癌のため死去。享年71。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%97%A4%E6%9C%AC%E7%BE%A9%E4%B8%80