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[No.280] 啄木の骨 投稿者:男爵  投稿日:2011/11/28(Mon) 07:50
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小野寺修郎:啄木の骨

気仙沼出身北海道新聞記者の後、函館新聞社編集長だった著者が、生前岡田健蔵生から啄木の遺骨引取りの件を聞きまとめた原稿が死後11年に出版。

函館図書館の仕事に奔走していた岡田は、東京に図書館視察に行くことが新聞に載り、宮崎から啄木の遺骨を東京から函館に引き取る仕事を頼まれる。
節子の病状がよくないことを聞き、岡田は宮崎に案内され病院の節子を見舞う。節子からも、東京に行ったら。土岐善麿にくれぐれもよろしくと伝えてほしい、啄木と義母の遺骨は浅草等光院に、息子真一のは了源寺にあり、了源寺は本郷喜之床の菩提寺だから喜之床を訪ねよろしく伝えてほしい、了源寺は等光院の近くだ等などを聞く。

はたして等光院の住職に断られ、困った岡田は読売新聞社に土岐善麿を訪ね、節子の様子やことづけを伝えた結果、土岐の説得で住職も遺骨を返してくれた。そのとき同郷の帝大法学部学生杉村巴雄にもきてもらい、彼から無縁仏は所有は寺にあるが、遺族がいたら遺骨は遺族側にあるという民法を教えてもらう。岡田と杉村が掘り、念のため住職から「遺骨引渡証」を書いてもらい大事に函館まで運んだ。

啄木の妹光子は「兄啄木の思い出」に書く。
「私は宮崎さんにお会いしたとき、ふき子さんと二人をまえにして、はっきりとこの墓地の移転に対する不満を申した。当時私はまだ石川光子であったし父一禎はまだ石川家の戸主だったのだ。私が『節子さんも函館に行くなと遺言した兄の意志に反して、どうして兄の遺骨までここに移したのです』というと宮崎さんは『あんなに立待岬が好きだったから...』ということであった」

この著者は
啄木死後、光子が知己のミス・サンダアから房州北条のコルバン夫妻を紹介してもらって節子を世話したのも、彼女を宮崎のいる函館にはどんなことをしても帰したくなかった一念からではなかったかと思う。

光子にすれば、宮崎は兄啄木を通じてではあるが初めて自分に求婚してくれた男性である。啄木に似て気位ばかり高かった光子は自ら進んで宮崎の胸に飛び込んでいく素直さも勇気もなく、青春の悔を抱えて懊悩の長い年月を独り苦しみ続けたのであろうが、宮崎への恋慕が次第に節子への憎悪に変形し、節子亡き後捌け口のないまま鬱積した怨念が立待岬に眠る兄の遺骨に向けられたのではないか。

光子をもてあましていた啄木から母の死後「以後、俺達一家のことに口出しするな」と言われた光子
       −−−−−−−−−

啄木の妹光子は函館に啄木の墓をつくることに大反対した。
それは、たてまえとしては出身の渋民につくるべきだということだが
本音は節子や宮崎たちの手もとにおくことが嫌だったからだろう。
自分に求婚してくれた宮崎だったが、啄木の意志でこの縁談が
実現されなかったことに対する怒りが、啄木ではなく宮崎と節子に方向を変えて向けられたのであった。

啄木の墓を岩手にと思ってあちこち相談した節子は、啄木が渋民に嫌われ
父の出身地の西根でも受け入れられなかったから諦めて
宮崎の提案にしたがって函館に啄木の墓をつくることに納得したのだ。

貧しかった啄木に同情して土岐善麿は兄が住職をつとめる寺に
啄木の遺骨をおさめたのだが
いよいよ函館に啄木の墓を作り、遺骨も函館にもってくることになって
土岐善麿の兄は怒ったから、関係者は土岐善麿にかけあって
ようやく遺骨をひきとることができたというわけであった。

しかし、啄木愛好家の中には、啄木の遺骨は函館にはなくて東京にあると思いこんでいる人もいるようだ。

近藤勇や土方歳三の墓も全国各地にある。


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