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[No.605] ドナルド・キーン:日本文学は世界のかけ橋 投稿者:男爵  投稿日:2011/12/16(Fri) 15:34
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ドナルド・キーン:日本文学は世界のかけ橋

中国の杭州大学で日本文学について講義をしたものをまとめて
この本ができた。

明治初期は文学無用論者が多かった。
 小説を好む人は正人佳士ではない。
 父兄のもってゐる小説を偸(ぬす)み見てこれにふける子弟は、早く身を破るとか、健康を害するものが多い。
 小説を好んで読むものには悪疾が多い。
    当時の小説は質の悪いものはっかり? マンガも同じような非難をされた。

明治初期の俳句の問題点
 陰暦から太陽暦に変わる。季語の季節感がずれる。
 似たようなことは、オーストラリアの詩人たちがたとえば
 シェークスピアの作品に「五月は花が咲くころで美しい」と出てくると
 オーストラリアの五月は冬の初めなので、違和感を感じる。

江戸時代に長崎の出島にきたオランダ人たち、そのなかにケンペルがいた。
ケンペルはドイツ人だったが、「鎖国論」で日本の鎖国を称賛した。
 日本にはすべてのものが揃っていて、外国から輸入する必要はない。
 日本には戦争がない。
 日本の生活水準は非常に高かった。
スウェーデン人のツンベルクも鎖国を高く評価した。

「影響を受けることはまねではない」
どうしても古いものは新しいものに影響を及ぼすわけで、その逆はありえない。
影響を及ぼした古い作品は、影響を受けた新しい作品より優れているという評価になりがちである。
新しい作品は古い作品のまねをした亜流のものだとよく言われるが、必ずしもそうではない。
 たとえば「古今集」のあとに「新古今集」ができた。
「新古今集」には「古今集」に基づいた歌が非常に多いが、そういう習慣を
日本語では「本歌取り」という。
つまり「新古今集」の歌人が「古今集」にあった歌の意味やイメージや言葉を自分の新しい歌に使ったのだ。
 その場合、「古今集」は「新古今集」よりもいいということになるのだろうか。
「新古今集」の方はまねにすぎないのかと思われるが、実はそうではない。
「新古今集」の方がはるかにいいのである。「古今集」にもいい歌があるが、全体としては、「新古今集」の方がよりすばらしいのである。

西洋の場合でもシェークスピアの悲劇の多くは、古い物語に因んでいる。
シェークスピアが、それまでどこにもなかった話をゼロから自分で作った例は非常に少ない。
調べると、ローマ時代やギリシャ時代のさまざまな戯曲や中世のフランスの物語に由来した作品。古い歴史に基づいた作品が圧倒的に多いことがわかる。
そして、どう考えてもシェークスピアの戯曲の方が、そうした作品よりも文学的に優れていることは間違いない。


英国人ディキンズは「忠臣蔵」を翻訳した。
ルーズベルト大統領が感動し、日露戦争のとき日本を支持した。
 ルーズベルト大統領は新渡戸稲造の「武士道」を読んで日本びいきになったという説もある。


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