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[No.422] わが人生の歌がたり 投稿者:男爵  投稿日:2012/03/19(Mon) 07:23
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五木寛之:わが人生の歌がたり

ラジオ深夜便で放送したものをもとに本にした。

古書店で重さで売っていた本を数冊買ってきた中の1冊。
1冊の値段にしたら50円以下。 もっと買ってきてもよかったが置く場所も少ないから。

流れ行く川のように 時代は移り 人も変わる。
その後に一つの歌が残り 過ぎゆく季節の記憶を奏でる。

昭和30年当時
五木は大学生だった。
生活は相変わらず苦しい。
五木も新宿でサンドイッチマンのアルバイトなどしていた。
日本の消費生活が少しずつ豊かになってくる。
それでいながら、社会的な激動は続いている。
不思議な、ある意味刺激的な時代だった。

鶴田浩二の「赤と黒のブルース」が思い出される。
http://www.youtube.com/watch?v=Mob7Tuwhi9w


[No.428] Re: わが人生の歌がたり 投稿者:男爵  投稿日:2012/03/19(Mon) 10:19
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> 五木寛之:わが人生の歌がたり
>
> ラジオ深夜便で放送したものをもとに本にした。

昭和三十年になってムード音楽もぞくぞく登場してきた。

ベターッとこちらのマイナスの心情に寄り添ってくるようなメロディと歌声にのせられ、いやだなと思いながらも聞かずにいられない。

著者の五木が
なんともいえずぞくぞくする、反発させるようでいて、惹きつけられる裏声の歌を聞くと当時を思い出すという。

昭和三十三年に出た
和田弘とマヒナスターズの「泣かないで」
http://www.youtube.com/watch?v=fgARdcAb8BM
  .......明日の晩も 会えるじゃないか


[No.429] Re: わが人生の歌がたり 投稿者:   投稿日:2012/03/19(Mon) 14:56
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> 五木寛之:わが人生の歌がたり

ラジオ深夜便でナマでかなりを聞きました。
いい番組でしたね。


[No.433] Re: わが人生の歌がたり 投稿者:男爵  投稿日:2012/03/19(Mon) 17:46
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ザックスさん

> ラジオ深夜便でナマでかなりを聞きました。
> いい番組でしたね。

では続きを...

貧しいながらも刺激に満ちた日々を東京でおくっていても
やはり気がかりなのは、九州の家族のこと。

入院中の父の容態はどうだろうか。弟は商業学校に通っていたが、きちんと行っているだろうか。妹はどうしているだろうか。
夜、ふっと目が覚めて考え出すと、朝まで眠れない。

だが考えても自分ではどうしようもない。
自分が実家には迷惑をかけずに、東京で大学生活を続けていくだけで精いっぱいだった。

そのうちに授業料が払えないという問題が生じた。
いまよりずっと安かった授業料であったが、それでも年に二回、前期と後期に振り込まないといけない。
このお金がなかなかできない。三か月とか半年滞納すると、学部の事務局の掲示板に「授業料未納者」の名前が張り出される。
五木はその常連だった。それも半年、一年と延び延びになって、結局二年くらい滞納した。その間しょっちゅう督促がきた。

授業料をきちんと払った学生には、四月に新しい学生証をくれる。新年度の学生証は、しゃくなことに前の年の学生証と色を変えてあって、授業料を払った学生かどうか一目でわかるシステムになっていた。
たとえば大学の図書館には、新しい学生証でないと入れてもらえない。

大学は、授業料を納めない学生の卒業論文は受け付けてくれない。
しかたなく事務に行き、「二年ほど休学させてくれたら、その間に働くことに専念して月謝を払います」と申し入れたが、「だめだ」と受け付けてくれなかった。未納分の月謝を完納しないと休学も許可できないというのであった。

困って、「じゃあ、どうすればいいんですか」と聞くと、「抹籍願を出しなさい」と言われた。
「それなら退学します」と言っても、それまで授業料を払っていれば退学できるが、授業料を納めていない学生には、退学さえ認められないというのであった。

休学もだめ、退学もだめ。
抹籍というのは、大学にいた事実をいっさい抹消されて、資料もなくなることなのだった。

まいったなと思った五木は、父親がそのころ亡くなって、どうしても大学を卒業しなければならない足かせもなくなっていたので、抹籍届を出した。
大学を卒業しなければ生きてはいけないとは思っていなかったから。
  (中退して作家になった例はいくらでもある。横光利一 太宰治 野坂 昭如...)

そんな憂鬱な日々を癒してくれるのは、やはり歌だった。
「有楽町で逢いましょう」はご当地ソングの走りだが、五木の好きな曲だった。
http://www.youtube.com/watch?v=7Nog3QNmCq4

    ♪     ♪

それまでの授業料を納めていない学生は、休学届も退学届も出せない。
出せるとしたら、抹籍届だけだ。

実は国立大学の場合も同じようだが、こちらは
抹籍ではなく除籍という。 籍がなくなるのは同じこと。

退学と抹籍(除籍)の違いは
たとえば、選挙の候補者が「○○大学中退」と言われても
もし、その大学に問い合わせたら
退学になっていれば退学という書類が残っているが
抹籍(除籍)になっていれば証拠の書類がないことになっているから
入学したことさえ証明してくれない。
で、つまり履歴を偽ったことになってしまう。
 そんなことをいったって、合格発表の掲示板の写真とか合格通知書とか、当時の学生証とか同級生だった人たちの証言があるではないかと思うかもしれない。そんな資料や証拠(?)があっても、大学の学籍書類から抹消されているのだ。

卒業証明書ではなく中退証明書(そんなものをもし希望したろすると)、それが発行できるのは書類が大学に残っている場合であって、抹籍(除籍)では書類が残っていないのだから、なにも知らない人は、あの人が大学中退だって、とんでもない、大学にすら入学していないじゃないかと思うだろう。

現に五木はのちに某大学の聴講生になるのだが、これも大学中退かそうでないかでは、扱いがちがうのである。
大学中退でなく抹籍(除籍)なら高卒になるから、高卒者が大学の講義を聴講するのは簡単にはいかない場合がある(履歴書に高卒と書いた五木は試験を受けて聴講生となることができた)。

もっとも、五木は某パーテイで早稲田大学の総長に会う。
総長から「ぜひ校友会に入ってほしい」と言われて、「実は、中退でなく抹籍だから入る資格がないのです」と答えると、「どれくらい授業料を滞納されましたか」と聞かれ、「二年分くらいです」と答え、総長がすぐ大学事務局に連絡してくれた。
結局、五木は五万数千円をはらうことで、正式の早稲田大学中退と履歴書にも書けることになった。

私立大学ならともかく、国立大学ではどうだろうか、おそらくそういう扱いは無理だろうと思う。


[No.523] Re: わが人生の歌がたり 投稿者:男爵  投稿日:2012/03/22(Thu) 07:00
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> では続きを...

昭和33年から34年にかけて世の中が明るくなる兆しがあった。

東京タワーの完成が昭和33年
34年には皇太子御成婚、児島明子さんがミス・ユニバース。
200メートル背泳の田中聡子選手、400メートル自由形の山中毅選手世界記録も出た。

なんといっても著者が忘れられないのは
33年秋の日本シリーズ
巨人三連勝の後の西鉄稲尾の大活躍で四連勝。

そのころのヒット曲に
ペギー葉山の「南国土佐を後にして」があった。
http://www.youtube.com/watch?v=47ZfF8yW1do

http://www.mellow-club.org/cgibin/free_bbs/12-semi2/wforum.cgi?no=196&reno=no&oya=196&mode=msgview

そのころ(気にそまない仕事をしながら)苦しく働いていた五木にとって
歌謡曲は心をなぐさめてくれるものだった。
演歌とか歌謡曲を音楽的に最高ですばらしいとか称揚する気はないが
五木にとってなくてはならないものであり
それがなければ生きていけない日々さえあったという。

そのころの思い出に残っている「お別れ公衆電話」がある。
当時、「公衆電話」というのは、いまの携帯電話と同じように、新しいかっこいい言葉だった。

 「お別れ公衆電話」 ♪ 松山恵子
http://www.youtube.com/watch?v=yZUB29PNXtc

松山恵子は2006年に亡くなった。
病気だとわかっていたときに、NHKの番組に出て
これが最後かもしれないと、感極まった表情で手を振って
「さよなら」と言ったときは、本当に人生にさらばという感じだったと
五木寛之は語った。
 そのラジオ深夜便の五木の声も覚えている。


[No.619] Re: わが人生の歌がたり 投稿者:男爵  投稿日:2012/03/24(Sat) 17:14
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> > では続きを...

昭和35年、五木の心をなぐさめてくれたのは
松尾和子の魅力的な歌声だった。

松尾和子と和田弘とマヒナスターズ 誰よりも君を愛す
http://www.youtube.com/watch?v=d_SAehNg4dU
  作詞:川内康範 作曲:吉田正

当時の五木は
東京でどうやって弟と妹そろって暮らしていけるか
という問題をかかえていた。


[No.789] Re: わが人生の歌がたり 投稿者:男爵  投稿日:2012/03/30(Fri) 07:10
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> > > では続きを...


この時代の歌の文句を見てみると
働く者の権利や仕事の喜びをたたえた社会派のものが多かった。
このころはまだ、社会主義の未来についての健全な幻想があったのだろう。

歌謡曲は
「未組織労働者の『インターナショナル』だ」
とも言われていた。

五木の働いていたような中小零細企業には組合なんてない。
春闘なんて、おれたちとは関係がない、とひがむとこころがあり
歌謡曲こそが、弱い立場の人間たちの心をつなぐ組合歌だ
という気持ちが強かった。

五木自身、迷いや失望、ひがみ、そねみがごちゃごちゃになったなかで生きていたし
未組織労働者という立場が大きなハンディだった。

歌を歌うことで、ひがみやそねみをまぎらわしていた五木寛之。

「うたごえ喫茶」を拠点に広まった「うたごえ運動」も
大きな組織に属さず、ただ歌うことによってのみ連帯する弱い立場の人々に支えられて、発展していった。
五木は「川岸のベンチで」がロマンティックで好きな歌だった。

川岸のベンチで
http://bunbun.boo.jp/okera/kako/kawagisi_bench.htm


[No.889] Re: わが人生の歌がたり 投稿者:男爵  投稿日:2012/04/01(Sun) 20:01
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> > > > では続きを...

会社をやめてフリーライターになった五木は
CMソングを作るようになる。

そのころのヒットソングでインパクトがあったのは
「コーヒー・ルンバ」だった。

コーヒー・ルンバ 昭和36年
http://www.youtube.com/watch?v=DMo-7wb3Cz8

CMソングも
企画から作詞、作曲、編曲から録音、そしてテープの編集まで
全部一人で段取りをつけなければいけなかった。

曲ができると楽譜をバイクに積んで、作曲家の家から編曲者に運んでいく。
それを受け取った編曲者は徹夜で編曲して、手書きでスコアを書き上げる。
それを持ってまたオートバイを飛ばして、スタジオに駆けつける
という具合で、夜も昼もなかった。
若いからできた。

あの頃をふり返ると、五十歳を過ぎてからのほうが
他人に対して穏やかになってきている気がするという。
余裕がなく、自分に対しても他人に対しても厳しかった。
思い出したくない不義理をしたこともあった。

その頃の五木寛之の気持ちにピッタリきたのが
仲宗根美樹の「川は流れる」だった。

「川は流れる」(仲宗根美樹)
http://www.youtube.com/watch?v=cD7HLEmMvkY


[No.944] Re: わが人生の歌がたり 投稿者:男爵  投稿日:2012/04/04(Wed) 07:27
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Re: わが人生の歌がたり
画像サイズ: 885×488 (79kB)
> > > > > では続きを...

> 会社をやめてフリーライターになった五木は
> CMソングを作るようになる。

CMソングの影響でリズムの時代になった。

当時の歌謡界の代表的スターに三橋三智也がいた。
数多い三橋三智也の歌の中でも「星屑の町」は好きな歌だった。

三橋三智也は民謡出身の歌手だったので
ちゃんと民謡の節回しのいいところを残している。
それでいて、リズム感がすごくいい。

「星屑の町」 作詞:東條寿三郎 作曲:安部 芳明
http://www.youtube.com/watch?v=USfFbGBQwQs&feature=related
第4回日本レコード大賞大賞 1962年(昭和37年)12月
歌唱賞 三橋美智也「星屑の町」


その当時のリズム感覚をよく表したヒット曲のひとつに
北原謙二の「若いふたり」がある。
http://www.youtube.com/watch?v=5gs3qBmd-ak
作詞:杉本夜詩美/作曲:遠藤実

「若いふたり」はドドンパですね。
 ドドンパは日本の音楽のジャンルの一つ。
 日本の古来の音楽である都々逸(どどいつ)とルンバを足したものと言われている(?)。

北原謙二は 2005年1月26日に亡くなった。


これは買った古書です。
重さで売っていたので
この「わが人生の歌がたり」は約50円くらいでした。


[No.973] Re: わが人生の歌がたり 投稿者:男爵  投稿日:2012/04/04(Wed) 20:16
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東京オリンピックで女子バレーボールが大活躍したが
五木寛之にとっては他人事だった。

むしろ、ベトナムのトンキン湾でアメリカ海軍の駆逐艦が
来たベトナムの魚雷艇によって攻撃される事件がおき
大きな戦争になる予感がした。
(実際にベトナム戦争が起き、アメリカは泥沼のような戦争に入り、結局ベトナムから手を引いた)

柴田翔が六十年安保での挫折した心情を
リリカルに描いた「されどわれらが日々― 」を発表した。


1964年レコード大賞の
作曲賞宮川泰、 作詩賞岩谷時子にかがやく
「ウナ・セラ・ディ東京」

http://duarbo.air-nifty.com/songs/2007/02/post_61f5.html
作詞:岩谷時子
作曲:宮川泰
歌:ザ・ピーナッツ

そして
この年のレコード大賞は
青山和子「愛と死をみつめて」だった。

http://www.mellow-club.org/cgibin/free_bbs/12-semi2/wforum.cgi?mode=find&list=tree&word=%88%A4%82%C6%8E%80%82%F0%82%DD%82%C2%82%DF%82%C4&cond=AND&view=10


[No.1013] Re: わが人生の歌がたり 投稿者:男爵  投稿日:2012/04/06(Fri) 07:40
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Re: わが人生の歌がたり
画像サイズ: 816×612 (80kB)
> 東京オリンピックで女子バレーボールが大活躍したが
> 五木寛之にとっては他人事だった。

当時のことで
もう一つ忘れてならないのは
地方から東京に出てきて働く人たちのことである。

その人たちの心をなぐさめる歌がたくさん作られた。

当時は集団就職も盛んで、オリンピックのためにも大量の労働力が必要だった。
全国から東京を目指して労働者たちがたくさんやってきて
オリンピックの施設造りに携わり、東京の近代化と拡大の礎を築いて
それがまた歌のテーマになったのである。

そんな歌で傑作中の傑作といえば「ああ上野駅」だろう。

啄木は、上野駅に行って故郷の訛りを聞いて懐かしんだ。

伊沢八郎の「ああ上野駅」は、故郷を懐かしくふり返るだけでなく、ここから再出発するという意気込みの歌だった。

ああ上野駅 井沢八郎
http://www.youtube.com/watch?v=FpYczKJinqc&feature=related


[No.1035] Re: わが人生の歌がたり 投稿者:男爵  投稿日:2012/04/06(Fri) 19:43
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五木寛之はラジオで
歌は人間の心を慰めてくれる、元気にしてくれると
語ります。

そして
その時代によく耳にする歌謡曲を紹介します。

私は
この部屋の精神にマッチすると思うから
紹介するわけです。

いわば
この部屋の応援歌 !


[No.1207] Re: わが人生の歌がたり 投稿者:男爵  投稿日:2012/04/13(Fri) 13:07
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五木寛之は
昭和39(1964)年はいい歌がたくさん生まれた以上に
日本の歌謡史にとっても一つの節目だったと回想する。
この年を境に、日本の流行歌の流れは大きく三つに分かれていった。

演歌の流れ  市川昭介 星野哲郎
ポップスの流れ  宮川泰 ザ・ピーナッツ
「うたごえ運動」の流れ  中村八大 いずみたく 夜明けの歌(岸洋子)


昭和39(1964)年にできた「忘れな草をあなたに」は
抒情歌の不朽の名作
作詞:木下龍太郎、作曲:江口浩司

忘れな草をあなたに ヴォーチェ・アンジェリカ
http://www.youtube.com/watch?v=FVU6TDqxdZo

忘れな草をあなたに 鮫島有美子
http://www.youtube.com/watch?v=v4Vbh42Ignk&feature=related

倍賞千恵子/忘れな草をあなたに
http://www.youtube.com/watch?v=VRe_cW8jIrM&feature=related


[No.1260] Re: わが人生の歌がたり 投稿者:男爵  投稿日:2012/04/15(Sun) 19:57
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昭和41(1965)年に結婚した五木は
モスクワに向かって旅立つ。

ブラート・オクジャワのアルバートの歌に憧れモスクワに行く。
http://www.mellow-club.org/cgibin/free_bbs/12-semi2/wforum.cgi?no=1220&reno=1216&oya=1216&mode=msgview
 ブラート・オクジャワはソ連のボブ・ディランと言われていたらしい。

ソ連と北欧の旅の印象がこの本に書かれている。

帰国してから金沢に住み執筆活動をおくる。
第56回直木賞を受賞してからは
本格的作家活動を今日まで続けてきた。

そのころの歌を三つあげている。
網走番外地 高倉健
http://www.youtube.com/watch?v=zeRLRWzykeE

女ひとり
http://www.uta-net.com/song/1207/
歌手:デューク・エイセス
作詞:永六輔
作曲:いずみたく

東京流れもの
http://duarbo.air-nifty.com/songs/2008/11/post-8bbe.html
作詞:永井ひろし、作曲:不詳、
編曲:桜田誠一、唄:竹越ひろ子