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[No.756] カチューシャの唄 投稿者:男爵  投稿日:2012/03/29(Thu) 06:47
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大正時代の流行歌、「カチューシャの唄」
作詞:島村抱月・相馬御風
http://www.youtube.com/watch?v=y6qHIVWRrX8
作曲した中山晋平は、ララという一種の囃しをいれることで成功した。

  カチューシャかわいや わかれのつらさ
  せめて淡雪 とけぬ間と
  神に願いを(ララ)かけましょうか

和田登:唄の旅人中山晋平
 この本には島村抱月の家で書生をしていたとき
中山晋平の憧れの岡田美知代のことが紹介されている。
美知代は田山花袋の布団のモデルで、美貌のためたくさんの男性の憧れであった。
奥手の中山晋平は積極的に美知代と交際していたのではなく、わずか数通の手紙のやりとりだけという。


[No.757] さすらいの唄 投稿者:男爵  投稿日:2012/03/29(Thu) 07:07
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> 大正時代の流行歌、「カチューシャの唄」
> 作詞:島村抱月・相馬御風
> http://www.youtube.com/watch?v=y6qHIVWRrX8
> 作曲した中山晋平は、ララという一種の囃しをいれることで成功した。

さすらいの唄  芸術座劇(生ける屍)  松井須磨子
http://www.youtube.com/watch?v=yX9KeuDcRb0

作詞:北原白秋、作曲:中山晋平、唄:松井須磨子
1 行こか戻ろか
  北極光(オーロラ)の下を
  露霊(ロシア)は北国 はて知らず
  西は夕焼け 東は夜明け
  鐘が鳴ります 中空(なかぞら)に
http://duarbo.air-nifty.com/songs/2007/08/post_6371.html

中山晋平がはじめて北原白秋と組んだ作品。
「さすらいの唄」のレコードには不買運動が起こった。
それは裏面の「にくいあん畜生」と「今度生まれたら」に対してであって
教育界からであったが、最初に火をつけたのが信州であった。
(中山晋平・松井須磨子は長野県出身)
しかし、不買運動が起こると世のならいで余計買い求める客が出てきた。


[No.761] 証城寺の狸囃子 投稿者:男爵  投稿日:2012/03/29(Thu) 08:32
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証城寺の狸囃子
http://ototama.com/music/folksong/score.php?scoreID=61
野口雨情 作詞・中山晋平 作曲

野口雨情の詩は最初は下記のものだった。

 証城寺の庭は
   月夜だ 月夜だ
  友達来い

 己達(おいら)の友達ァ
   どんどこどん

 負けるな 負けるな
   和尚さんに負けるな
  友達来い

 証城寺の萩は
   月夜に 月夜に
  花盛り

 己達の友達ァ
   どんどこどん

これを 中山晋平が無断で現在のものに変えて発表してしまった。
もっとも野口雨情はモンゴルに旅行中で、相談したくてもできなかった。

「みんな出て 来い来い来い」も「ぽんぽこぽんのぼん」もなかった。
これらは 中山晋平の創作である。

あとから野口雨情は怒ったようだが、唄が売れるとともに
中山晋平の加筆を認めるようになった。
野口雨情も心の広い人間だった。

中山晋平はその後もたびたび
歌の調子を整えるといって、囃し言葉を入れている。


[No.941] Re: 証城寺の狸囃子 投稿者:男爵  投稿日:2012/04/03(Tue) 19:53
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> 証城寺の狸囃子
> http://ototama.com/music/folksong/score.php?scoreID=61
> 野口雨情 作詞・中山晋平 作曲

> 「みんな出て 来い来い来い」も「ぽんぽこぽんのぼん」もなかった。
> これらは 中山晋平の創作である。

  ツ ツ 月夜だ
  みんな出て 来い来い来い
  おいらの友だちゃ
  ぽんぽこ ぽんの ぽん

これは「ほ、ほ、蛍来い」のようなわらべ歌の伝統を継承したものであり
「ぼ、ぼ、ぼくらは少年探偵団」や
「ゲゲゲの鬼太郎」に受け継がれているものである。

さらに、そういう例をあげると
天才バカボンの「レレレのおじさん」や
鉄腕アトムの「ラララ星のかなた」「ラララ科学の子」
などにも見られる。


[No.759] ゴンドラの唄 投稿者:男爵  投稿日:2012/03/29(Thu) 07:34
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> 和田登:唄の旅人中山晋平

「ゴンドラの唄」(ゴンドラのうた)は、1915年(大正4年)に発表された歌謡曲。吉井勇作詞。中山晋平作曲。

芸術座第5回公演『その前夜』の劇中歌として生まれ、松井須磨子らが歌唱、大正時代の日本で流行した。

当時、抱月は須磨子と同棲をはじめていて、市子夫人が中山晋平に当たり散らすものだからいたたまれず
抱月の家から出て、長野出身の東大生の持ち物である長屋の管理人となる。
晋平の出勤中の留守番として郷里から晋平の母ぞうが上京する。
島倉千代子の「東京だよおっかさん」のように上京した母親を連れて
晋平は浅草などの名所を案内した。
しかし、それから数ヶ月で母は体の不調を訴え帰郷し亡くなってしまった。

母の死の直前に「ゴンドラの唄」の作曲の依頼が舞い込んできた。

中山晋平によれば、母の死の直後、悲しみに暮れる帰りの汽車の中で「『ゴンドラの唄』の歌詞が語りかけて」きて、「汽車の揺れとともに、自然と旋律がわいてきた」という。
吉井勇の歌詞はアンデルセンの「ベネチアのゴンドラ」から引用している。

この本によれば
吉井勇は自分の作なのに、「ゴンドラの唄」を聞くのをいやがっていたという。

ゴンドラの唄
http://www.youtube.com/watch?v=0xsqJnZcyi8