画像サイズ: 679×508 (48kB) | 石川啄木は北海道滞在は1年未満だった。 そのわりには、あちこちで歌を詠み、話題をいっぱい残していった。
1907(明治40年) 4月高等科生徒を引率して校長排斥のストライキを指示。そして渋民村を去ることになる。 5月には函館に渡る。 6月函館弥生尋常小学校代用教員となる。 9月札幌「北門新報」を経て「小樽日報」の創業に参画。野口雨情と三面を担当。 12月小林事務長と争論。 1908(明治41年) 1月釧路新聞社に赴任。4月上京。
1月から3月までの 冬の釧路では何を食べたのだろうか。
釧路は寒い。 小樽、釧路、根室は海風が吹くと体感温度が下がる。 旭川や帯広は寒いが、こちらは体の芯まで冷える。遠赤外で焼き芋が芯まで温かくなるのと対照的。
釧路時代の啄木は小奴相手に毎晩料亭で料理を食べていたらしい。 刺身やカニ料理だけでは体は温まらないだろうから、熱燗は飲んだであろう。 もしかすると、石狩鍋や三平汁が出たかもしれない。
当時の北海道の日本酒を推定すると..... 千歳鶴は明治5年に創業。
旭川の男山は1899年創業。
北の誉は新しく、1944年(昭和19年)創業。
根室の北の勝は 1887年 だから、啄木も飲んだかもしれない。
あまり知られていないが 夕張近くの栗山の小林酒造の北の錦は創業明治11年。
ローカルな話題でごめんなさい。 |