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[No.1750] 川田正子 投稿者:男爵  投稿日:2016/09/17(Sat) 09:09
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 みかんの花咲く丘  川田正子
https://www.youtube.com/watch?v=9JLubaIMfeI

少女歌手の川田正子のところに雑誌のインタビューに来た加藤省吾は
そばにいた海沼實に、(終戦後で食料事情が悪かった)珍しい赤飯をご馳走するからと引き止められ
「みかんの花咲く丘」の作詞をすることになった。

だいたいの歌詞の構想は、海沼實がもっていたらしい。
彼のキーワードを聞きながら、加藤省吾は歌詞の体裁をつくっていった。

(およそ30分くらいで)歌詞ができるとすぐ海沼實はGHQのところに飛んでいった。
GHQ(当時は小説も映画も音楽もGHQの許可が無いと発表できなかった)のOKをもらって
海沼實は川田正子を連れて,伊東行きの電車に乗る。

まだ曲はできていない。
海沼實は電車の中で「みかんの花咲く丘」の曲を作る。

その夜に宿で、できたばかりの歌を川田正子に教え
翌日のNHKの放送に間に合わせた。
(東京のNHKと伊東市の小学校を中継してのラジオ二元放送「空の劇場」という番組が企画され、その伊東市の会場で川田正子が唄う歌だった)

一度だけの歌と思って急いで作った「みかんの花咲く丘」は名曲だった。
前の晩にはじめて聞いて覚えた歌を、みごとに歌った川田正子は天才。


いまから20年くらい前に
代々木上原にある 古賀政男音楽博物館で、この関係の本を読んだのだが
どうも 川田正子と川田孝子の父親と川田美智子の父親は別ではないか
すなわち 川田美智子の父親は海沼實ではないかと感じたのだが
古賀政男音楽博物館に置いてある数冊の本には、そんなことは書いていなかった。
  おそらく、関係者は海沼實に遠慮したのだろう。

海沼實は,内気な川田正子の性格を直すべく歌の指導を母親から頼まれ
川田正子の家に下宿するようになる。

おかげで、川田正子は戦時中も放送局で歌を歌い、爆弾が降ってきてもラジオから
彼女の歌が流れるのを聞いて、国民は東京はまだ無事だと安心したという。
川田正子と川田孝子の父親はいつしか家を出てしまった。
彼女たちの母親は、そんな夫よりは海沼實に将来をかけたようだ。

たしかには海沼實は川田姉妹の協力で、戦争前後の時期に日本の童謡を大きく育てた功労者である。

のちに川田正子の本を読んで私は疑問が解けた。
海沼實は童謡をつくるという仕事を通じて、川田正子と川田孝子の母親と意気投合したのだ。
そして海沼實との間に生まれたのが川田美智子だった。

音羽ゆりかご会の世話を一所懸命する川田正子に対して
妹の川田孝子はクールだった。
「お姉ちゃん、そんなにがんばることはないよ。どうせお母さんは美智子に跡を継がせたいんだから」

それは正子も認める事実だった。でも、ずっと海沼實の指導のもとにやってきた童謡だった。
自分の分身みたいな音羽ゆりかご会も大切にしたい、そう川田正子は思っていた。


「音羽ゆりかご会」をはじめた海沼實は
同じ長野出身の草川 信を頼って上京した。
尊敬する草川 信の「ゆりかごの歌」からとって
「音羽ゆりかご会」の名前をつけたのです。

実は海沼實は長野に妻子を残して東京に出て来たのです。
川田正子の母親と一緒になるため長野の妻とは離婚した。
川田正子の母親も元夫と離婚して海沼實と結婚したわけです。

海沼實の死後は、娘の美智子が受け継ぎ
父海沼實が亡くなるとすぐ美智子に息子が生まれます。まるで父の生まれかわりのような息子。
この息子がみずからも三代目海沼實を名告って
たまにラジオ深夜便に登場します。


川田正子 / とんがり帽子
https://www.youtube.com/watch?v=52279fDos8c


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