楠木しげお文 山中冬児絵 銀の鈴社発行
石川啄木が亡くなるとき 若山牧水を枕元に呼んで 「一握の砂」(明治43年12月、東雲堂書店)からあとの歌を 東雲堂に売り込んでほしいと頼む。 承諾した牧水は、自分の代わりに土岐善麿(哀果)が東雲堂に行ってもらうように頼み 土岐がさっそく行って話をつけて、原稿料20円を啄木に届けた。 こうして 「悲しき玩具」は啄木の死後2ヶ月たった6月に出版された。
明治45年4月13日 啄木危篤として呼び出された牧水が駆けつけると 枕元には、金田一京助と節子がいた。 これならだいじょうぶと勤めのある金田一が帰ってから 啄木の容態が急変して亡くなった。 臨終を見届けたのは 妻節子、父一禎、長女京子そして若山牧水であった。
大正15年11月末に 若山牧水は北海道旅行の帰りに 北上に寄る。 http://www.city.kitakami.iwate.jp/sub03/gakushu/gakushu02/page_1336.html 12月25日、大正天皇が崩御し、昭和となる。
晩年の牧水はさすがに疲れて、酒を飲むのもひかえようと思うと母に言う。 この本によると、毎日平均2升5合飲んでいたというからすごい。 母親は、牧水は酒で鍛えた体だから、飲まないといけないと言ったという。 どうやら、酒からのがれられない(アル中の)息子をみて、飲むことをすすめたらしい。
晩年の牧水は家族にも恵まれたが 全国にファンがいたから旅は続けたらしい。 牧水は妻を連れて朝鮮にも行った。
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