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[No.15750] 日本の中の朝鮮文化 投稿者:男爵  投稿日:2010/09/15(Wed) 07:51
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金達寿 日本の中の朝鮮文化  講談社文庫 1983

著者は在日の有名な作家である。
「日本の中の朝鮮文化」全12巻が文庫本になった第1巻である。

この本には関東(神奈川券、埼玉県、東京都、栃木県、茨城県、千葉県、群馬県)に残る
朝鮮文化の歴史的なものを求めて歩いた報告が述べられているが
あるはあるは、著者の知らなかったことが続々出てくる。
あんまり多いから一部のみ紹介します。

神奈川券の秦野地方は、帰化人秦氏一族によって開発された。
秦氏は古代朝鮮の新羅・加耶から渡来した豪族の一つである。
京都の太秦にある弥勒菩薩で有名な広隆寺は秦氏の氏寺だった。

大磯の高来神社は高麗神社が変わったもの。
どうして変わったのか宮司に聞いてもわからない。
箱根神社や伊豆山権現も、この高来神社の真の祭神である高麗王若光を勧請したものだということであるが、箱根神社や伊豆山権現もそのことを隠しているようだと高来神社の宮司から聞く。
著者は、日本の歴史がこれまで一貫して、そこから朝鮮というものを消し去ろうとしたことの一つのあらわれではないかと推察する。
著者によれば、高句麗系渡来氏族は朝鮮語ではオイソ(いらっしゃい)の意味をもつ大磯に上陸して、ここに落ち着いた後に、さらに北上したのであろうということになる。

西武線の高麗駅前におりて立つと、まず目に入るのは「天下大将軍」「地下女将軍」という一種異様な標柱である。
高麗郷へ入る道の左右両側に立っていて、「地下女将軍」の横にそれを説明した掲示板があるが
これは朝鮮でよく見られるヂャンスン、または将軍標(ジャングンビョ)というもので、境界標であると同時に、その村の災厄防除を願った道神、守護標でもある。
目指す高麗神社と高麗山勝楽寺の聖天院までは、ここから歩いて4、50分。

高麗神社で見せてもらった「高麗氏系図」は朝鮮のいわゆる族譜で、千数百年の歴史が続いていることを示す。
初代は高麗王若光で、高麗神社の祭神となっているものである。
そして、この祭神は同時に高麗明神、大宮明神、あるいは白髭明神ともいわれていて、ほうぼうに祭られている。
高麗王とは、高麗の王というわけではない。
朝鮮・高句麗系の渡来人氏族であったかれを中心とする一団が、相模の大磯に上陸し、そこの郡長となった。
そうしてかれはのち、「続日本紀」の703年、「従五位下高麗若光賜王姓」となったものといわれ、この王とは「コシキ」という古代朝鮮語で、日本のいわゆる姓(かばね)の一つである。
つまり高麗王若光というわけである。

武蔵あるいは武蔵野という言葉からして朝鮮語のモシシ、苧(からむし 韓モシ)の種子から出たものとされている。
鳥居竜蔵も「武蔵野及其周囲」で、ムサシの地名はもと朝鮮語と同じく、モシシの苧種子の意味であって、最初武蔵の一カ所に小部分にこの苧を殖えた所の名で、これがしだいに広い武蔵の地名となったものと思うと述べている。

文庫本になっての追加
寒河江の語源について、丹羽基二郎「地名」によれば、寒河江の「さむ」「さむかわ」は次のようになっている。
 さむかわ 寒川。朝鮮語のサガ(わたしの家、社などの意)からくる。
 朝鮮渡来人の集落があった。寒川はもとは寒河で当て字
「さがみ」」を見ると
 さがみ 相模、相摸。相武にも当てる。朝鮮語のサガ(寒河)からきている。
 朝鮮人の居所。相模には朝鮮渡来人の集落があった。寒川神社はその氏神。
神社本庁編「神社銘鑑」によると、寒川神社は相模国一の宮となっている。

武田信玄の祖先の地は常陸国武田郷である。
武田氏は常陸の国を支配した佐竹氏とともに源義光(新羅三郎、八幡太郎義家の弟)が祖先で
義光の三男義輝清が那珂川北岸の武田郷に住み、武田冠者義清と名乗った。
のちに義清は子の清光とともに常陸を追われ、甲斐に移り、甲斐武田氏に続いた。
(京都の公家の日記に、12世紀はじめの武田郷周辺は勢力争いが激しく、拡張をあせる新参の義清、清光父子の行きすぎの行為があり告発されたと記載あり)
では、源義光はどうして新羅三郎義光だったのか。
「甲斐武田氏、常陸佐竹氏の先祖である源義光は、近江圓城寺の新羅明神の神前で元服したので新羅三郎とよばれる」というのが定説である。
遠江(静岡県)の浜松市江之島に、近江の新羅明神を勧請(かんじょう)して新羅大明神をまつった小笠原源太夫基長の自筆「新羅大明神祀記」がある。
源太夫もまた源氏一門から出た者で、その「新羅大明神祀記」によると、近江の新羅明神は自分たちの源氏の祖神であるからからということが書かれている。
そうすると、佐々木源氏といわれる近江におこった源氏は、新羅系渡来人から出た者ということになる。
新羅・加耶系渡来人である秦氏による虎塚壁画古墳といい、常陸佐竹氏、甲斐武田氏など、これはみなそれから出た者で、常陸の国だった茨城県の古代・中世は、百済王遠宝、阿部狛(高麗)臣秋麻呂といった百済系、高句麗系の国司もいたが、那珂郡幡田郷ほか新治郡や茨城郡などにも大幡郷があったことからみて、新羅・加耶系渡来人またはその子孫が中心であったということになる。


[No.15752] Re: 日本の中の朝鮮文化 投稿者:   投稿日:2010/09/15(Wed) 17:25
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> 金達寿 日本の中の朝鮮文化  講談社文庫 1983
>
> 著者は在日の有名な作家である。
> 「日本の中の朝鮮文化」全12巻が文庫本になった第1巻である。
>
> この本には関東(神奈川券、埼玉県、東京都、栃木県、茨城県、千葉県、群馬県)に残る
> 朝鮮文化の歴史的なものを求めて歩いた報告が述べられているが
> あるはあるは、著者の知らなかったことが続々出てくる。
> あんまり多いから一部のみ紹介します。
>
> 神奈川券の秦野地方は、帰化人秦氏一族によって開発された。
> 秦氏は古代朝鮮の新羅・加耶から渡来した豪族の一つである。
> 京都の太秦にある弥勒菩薩で有名な広隆寺は秦氏の氏寺だった。

 うーん。秦氏は、ユダヤ人の末裔と云う説もあり、何がなんやらわからんなあ (@o@;
 歴史は言いたい放題の感じ。

http://ja.wikipedia.org/wiki/日ユ同祖論

Toshichan in Kyouto-fu


[No.15755] Re: 日本の中の朝鮮文化 投稿者:男爵  投稿日:2010/09/15(Wed) 21:29
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Toshichan

>  うーん。秦氏は、ユダヤ人の末裔と云う説もあり、何がなんやらわからんなあ

ユダヤ人とは人類学で言う民族ではなく
つまりユダヤ教を信ずる人をさすので
仏像信仰の秦氏はユダヤ教徒ではありえないでしょう。
キリスト教に改宗してユダヤ教徒でなくなっても
なかなかドイツ人は受け入れてくれなかったハイネの例はあります。

ロシアに代々長年住んでいたユダヤ人は外見的にはロシア化するし
ドイツに住んでいれば子孫はドイツ人みたいになるし
アメリカのユダヤ人はアメリカ人のように見えますが
かんじんなことはユダヤ教を捨てないことです。

みちのくに
キリストの墓というものがあります。
では、磔にされたのは?というと
あれは身代わりになったキリストの弟で
本物は日本の北東北に逃げてきたのだという
その土地の伝説があります。
この話をドイツ人にしたら「ばかばかしい」とあっさり言われてしまいました。

どうやら隠れキリシタンにまつわる伝説のようです。


[No.15756] Re: 日本の中の朝鮮文化 投稿者:   投稿日:2010/09/15(Wed) 23:34
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 男爵さん、まいど。
>
> >  うーん。秦氏は、ユダヤ人の末裔と云う説もあり、何がなんやらわからんなあ
>
> ユダヤ人とは人類学で言う民族ではなく
> つまりユダヤ教を信ずる人をさすので
> 仏像信仰の秦氏はユダヤ教徒ではありえないでしょう。
> キリスト教に改宗してユダヤ教徒でなくなっても
> なかなかドイツ人は受け入れてくれなかったハイネの例はあります。
>
> ロシアに代々長年住んでいたユダヤ人は外見的にはロシア化するし
> ドイツに住んでいれば子孫はドイツ人みたいになるし
> アメリカのユダヤ人はアメリカ人のように見えますが
> かんじんなことはユダヤ教を捨てないことです。
>
> みちのくに
> キリストの墓というものがあります。
> では、磔にされたのは?というと
> あれは身代わりになったキリストの弟で
> 本物は日本の北東北に逃げてきたのだという
> その土地の伝説があります。
> この話をドイツ人にしたら「ばかばかしい」とあっさり言われてしまいました。

 うーん。この、ウィキさんによると、

「明治期に貿易商として来日したスコットランド人のN. McLeod[1](en:Nicholas McLeod)は、日本と古代ユダヤとの相似性に気付き、調査を進め、世界で最初に日ユ同祖論を提唱し、(明治11年に)体系化した。」

 そうなんで、けっこう古くから、この説は有ったらしまっせ。
 真偽の程は、朝鮮説より、怪しいのかもしれへんけどーー。

                             Toshichan in Kyouto-fu


[No.15759] Re: 日本の中の朝鮮文化 投稿者:男爵  投稿日:2010/09/16(Thu) 08:11
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 Toshichan

> 「明治期に貿易商として来日したスコットランド人のN. McLeod[1](en:Nicholas McLeod)は、日本と古代ユダヤとの相似性に気付き、調査を進め、世界で最初に日ユ同祖論を提唱し、(明治11年に)体系化した。」

深田祐介の「新西洋事情」に書いてあったと思いますが
日本の商社かメーカーが、はじめてアメリカやヨーロッパに製品を売り込みに行った時
海のものとも山のものともわからない日本製品を、どこでもちゃんとした歴史ある商人やバイヤーは相手にしてくれなかった。
これはおもしろそうと投機的に相手をしたのがユダヤ人だったと書いてありました。
最初は、日本人はユダヤ人を相手にするほかなかったが、次第に売れて名が広まってくると、一流の商人や銀行からも相手にされるようになり、長年お世話になったユダヤ人たちとの関係を円満に解消してゆく苦労話があったと記憶しています。

欧米人から少し異質と見られていた日本人とユダヤ人、手を結ぶ時は協力していったし、そういう動きが現代のどこかに残っているかもしれません。
そういう人たちの間にある一緒の伝説とか信仰のたぐいだと思います。日ユ同祖論とは。

だいたい日本人は割礼の習慣もないし、豚肉も親子丼(母と子のものを一緒に食べない、牛肉シチューにミルクを加えるのは厳禁)も食べるし、日曜日は安息日だといって仕事はしないかというと洗濯したり働く人はどしどし働きますから、まったくユダヤの戒律を違反しています。決してユダヤ人はそんな日本人をユダヤ教徒とは認めないでしょう。


[No.15761] Re: 日本の中の朝鮮文化 投稿者:   投稿日:2010/09/16(Thu) 12:54
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 男爵さん。まいど。

> > 「明治期に貿易商として来日したスコットランド人のN. McLeod[1](en:Nicholas McLeod)は、日本と古代ユダヤとの相似性に気付き、調査を進め、世界で最初に日ユ同祖論を提唱し、(明治11年に)体系化した。」
>
> 深田祐介の「新西洋事情」に書いてあったと思いますが
> 日本の商社かメーカーが、はじめてアメリカやヨーロッパに製品を売り込みに行った時
> 海のものとも山のものともわからない日本製品を、どこでもちゃんとした歴史ある商人やバイヤーは相手にしてくれなかった。
> これはおもしろそうと投機的に相手をしたのがユダヤ人だったと書いてありました。
> 最初は、日本人はユダヤ人を相手にするほかなかったが、次第に売れて名が広まってくると、一流の商人や銀行からも相手にされるようになり、長年お世話になったユダヤ人たちとの関係を円満に解消してゆく苦労話があったと記憶しています。
>
> 欧米人から少し異質と見られていた日本人とユダヤ人、手を結ぶ時は協力していったし、そういう動きが現代のどこかに残っているかもしれません。
> そういう人たちの間にある一緒の伝説とか信仰のたぐいだと思います。日ユ同祖論とは。

 読むのがお好きで、早い、男爵さんやし、ウィキさんの「日ユ同祖論」を読んでみはったらーー。
 結構、長くて、根気の無くなった、私は、give upですわ。

 太秦いうのは、「古いユダヤ語や」云うて書いてありまっけど、秦氏がユダヤ人か、朝鮮人か
は、男の子孫探し出して、遺伝子解析することかもしれへん。
 ユダヤ系なら、日本にまれなE系統で、朝鮮人ならOb2ですやろね。まあ、絶対やないけど
言いたい放題の、歴史書よりは、確かかもしれへん。

Toshichan in Kyouto-fu

                           

 


[No.15764] Re: 日本の中の朝鮮文化 投稿者:男爵  投稿日:2010/09/16(Thu) 16:07
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> 金達寿 日本の中の朝鮮文化  講談社文庫 1983

この本で不思議に思ったことは「神社」のことです。

> 大磯の高来神社は高麗神社が変わったもの。

ここでいう高麗とは、著者も三国時代の高句麗のことと断っています。

著者たちは西武線の高麗駅前から歩いて高麗神社に行くわけです。

> 高麗神社で見せてもらった「高麗氏系図」は朝鮮のいわゆる族譜で、千数百年の歴史が続いていることを示す。
> 初代は高麗王若光で、高麗神社の祭神となっているものである。

> 高麗王とは、高麗の王というわけではない。
> 朝鮮・高句麗系の渡来人氏族であったかれを中心とする一団が、相模の大磯に上陸し、そこの郡長となった。
> そうしてかれはのち、「続日本紀」の703年、「従五位下高麗若光賜王姓」となったものといわれ、この王とは「コシキ」という古代朝鮮語で、日本のいわゆる姓(かばね)の一つである。
> つまり高麗王若光というわけである。

高句麗系の朝鮮の人々が関東に移り住んで
先祖を祭って高麗神社としたということですが
そもそも神社は朝鮮半島にあったのでしょうか。

神社を作ること自体、もう朝鮮の文化をはなれて
日本人としての行為なのではないかと思うのですが。


[No.15772] Re: 日本の中の朝鮮文化 投稿者:   投稿日:2010/09/17(Fri) 23:44
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  男爵さん、みなさん、

> > 金達寿 日本の中の朝鮮文化  講談社文庫 1983
> この本で不思議に思ったことは「神社」のことです。
> > 大磯の高来神社は高麗神社が変わったもの。
> > 高麗神社で見せてもらった「高麗氏系図」は朝鮮のいわゆる族譜で、千数百年の歴史が続いていることを示す。
> > 初代は高麗王若光で、高麗神社の祭神となっているものである。
> 神社を作ること自体、もう朝鮮の文化をはなれて
> 日本人としての行為なのではないかと思うのですが。

あっしは中公文庫の「日本の朝鮮文化 座談会」というのを読みました。といってもそのごく一部ですが…。(^_-)-☆この本は、キムダルスの著書ではなく、司馬遼太郎と上田正昭、キムダルスの三人による座談会です。

 武蔵国の高麗郡の郡司高麗若光をまつった高麗神社はもと郡司が相模国大磯に住んでいたことで住民が徳を讃えて高麗寺を建てたのが始まりのようですね。元は寺(!)だった。

 しかも、高句麗から来た渡来人は、帰る当てのない、唐と新羅の連合軍に追われてきた人々です。神も仏も一緒くたの、移り住んだ土地の習慣に馴染んでもすこしも可笑しくないのでは?ちなみに、渡来した高麗氏のなかには、修験者(!)となったものもいるようです。

 逆にあっしは、上田先生の話で、宮内庁に韓神がまつられている、というのもショックでした。また、面白いのは、司馬遼太郎が、新羅神だとか高麗神というのは、たいへんご利益があり、参勤交代の殿様がかならず立ち寄ってお参りをするし、戊辰戦役時の薩摩藩士はここでお札まで貰っていったよし。そこで、wikiの高麗神社をみると、ここへお参りした人はみんな総理大臣になっているとか。

 たとえば、濱口雄幸、若槻禮次郎、斎藤実、小磯国昭、幣原喜重郎、鳩山一郎などの面々。菅さんはどうか知りませんが、鳩山さんは祖父がなっているからやはりお参りした口かも。もちろん韓国の駐日大使は、きているそうです。

 ところで、東京に狛江ってありますけど、あそこも韓国に関係あるんでしょうかね?また、始めは朝鮮半島のひとたちは、尊敬されていたよし。それには、役人とか高度の技術を持った人が多かったからでしょうね。上田先生によると、明治以後はべつとして、7世紀頃までは蕃国意識はなく、むしろ憧憬の気持ちの方が強かったそうです。

 


[No.15774] Re: 日本の中の朝鮮文化 投稿者:男爵  投稿日:2010/09/18(Sat) 06:11
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唐辛子 紋次郎 さん、みなさん、

> > 神社を作ること自体、もう朝鮮の文化をはなれて
> > 日本人としての行為なのではないかと思うのですが。

>  武蔵国の高麗郡の郡司高麗若光をまつった高麗神社はもと郡司が相模国大磯に住んでいたことで住民が徳を讃えて高麗寺を建てたのが始まりのようですね。元は寺(!)だった。

>  しかも、高句麗から来た渡来人は、帰る当てのない、唐と新羅の連合軍に追われてきた人々です。神も仏も一緒くたの、移り住んだ土地の習慣に馴染んでもすこしも可笑しくないのでは?ちなみに、渡来した高麗氏のなかには、修験者(!)となったものもいるようです。

どうもそうみたいですね。
仏教あり神道あり土着信仰も道教的要素も。
このなんでもありの性格は日本人特有なものでもなく朝鮮半島の人々にも見られた性格なのでしょうか。 今後のテーマ!

>  ところで、東京に狛江ってありますけど、あそこも韓国に関係あるんでしょうかね?

狛江は高麗です。関係はあると書いてあります。