金達寿 日本の中の朝鮮文化 講談社文庫 1983
著者は在日の有名な作家である。 「日本の中の朝鮮文化」全12巻が文庫本になった第1巻である。
この本には関東(神奈川券、埼玉県、東京都、栃木県、茨城県、千葉県、群馬県)に残る 朝鮮文化の歴史的なものを求めて歩いた報告が述べられているが あるはあるは、著者の知らなかったことが続々出てくる。 あんまり多いから一部のみ紹介します。
神奈川券の秦野地方は、帰化人秦氏一族によって開発された。 秦氏は古代朝鮮の新羅・加耶から渡来した豪族の一つである。 京都の太秦にある弥勒菩薩で有名な広隆寺は秦氏の氏寺だった。
大磯の高来神社は高麗神社が変わったもの。 どうして変わったのか宮司に聞いてもわからない。 箱根神社や伊豆山権現も、この高来神社の真の祭神である高麗王若光を勧請したものだということであるが、箱根神社や伊豆山権現もそのことを隠しているようだと高来神社の宮司から聞く。 著者は、日本の歴史がこれまで一貫して、そこから朝鮮というものを消し去ろうとしたことの一つのあらわれではないかと推察する。 著者によれば、高句麗系渡来氏族は朝鮮語ではオイソ(いらっしゃい)の意味をもつ大磯に上陸して、ここに落ち着いた後に、さらに北上したのであろうということになる。
西武線の高麗駅前におりて立つと、まず目に入るのは「天下大将軍」「地下女将軍」という一種異様な標柱である。 高麗郷へ入る道の左右両側に立っていて、「地下女将軍」の横にそれを説明した掲示板があるが これは朝鮮でよく見られるヂャンスン、または将軍標(ジャングンビョ)というもので、境界標であると同時に、その村の災厄防除を願った道神、守護標でもある。 目指す高麗神社と高麗山勝楽寺の聖天院までは、ここから歩いて4、50分。
高麗神社で見せてもらった「高麗氏系図」は朝鮮のいわゆる族譜で、千数百年の歴史が続いていることを示す。 初代は高麗王若光で、高麗神社の祭神となっているものである。 そして、この祭神は同時に高麗明神、大宮明神、あるいは白髭明神ともいわれていて、ほうぼうに祭られている。 高麗王とは、高麗の王というわけではない。 朝鮮・高句麗系の渡来人氏族であったかれを中心とする一団が、相模の大磯に上陸し、そこの郡長となった。 そうしてかれはのち、「続日本紀」の703年、「従五位下高麗若光賜王姓」となったものといわれ、この王とは「コシキ」という古代朝鮮語で、日本のいわゆる姓(かばね)の一つである。 つまり高麗王若光というわけである。
武蔵あるいは武蔵野という言葉からして朝鮮語のモシシ、苧(からむし 韓モシ)の種子から出たものとされている。 鳥居竜蔵も「武蔵野及其周囲」で、ムサシの地名はもと朝鮮語と同じく、モシシの苧種子の意味であって、最初武蔵の一カ所に小部分にこの苧を殖えた所の名で、これがしだいに広い武蔵の地名となったものと思うと述べている。
文庫本になっての追加 寒河江の語源について、丹羽基二郎「地名」によれば、寒河江の「さむ」「さむかわ」は次のようになっている。 さむかわ 寒川。朝鮮語のサガ(わたしの家、社などの意)からくる。 朝鮮渡来人の集落があった。寒川はもとは寒河で当て字 「さがみ」」を見ると さがみ 相模、相摸。相武にも当てる。朝鮮語のサガ(寒河)からきている。 朝鮮人の居所。相模には朝鮮渡来人の集落があった。寒川神社はその氏神。 神社本庁編「神社銘鑑」によると、寒川神社は相模国一の宮となっている。
武田信玄の祖先の地は常陸国武田郷である。 武田氏は常陸の国を支配した佐竹氏とともに源義光(新羅三郎、八幡太郎義家の弟)が祖先で 義光の三男義輝清が那珂川北岸の武田郷に住み、武田冠者義清と名乗った。 のちに義清は子の清光とともに常陸を追われ、甲斐に移り、甲斐武田氏に続いた。 (京都の公家の日記に、12世紀はじめの武田郷周辺は勢力争いが激しく、拡張をあせる新参の義清、清光父子の行きすぎの行為があり告発されたと記載あり) では、源義光はどうして新羅三郎義光だったのか。 「甲斐武田氏、常陸佐竹氏の先祖である源義光は、近江圓城寺の新羅明神の神前で元服したので新羅三郎とよばれる」というのが定説である。 遠江(静岡県)の浜松市江之島に、近江の新羅明神を勧請(かんじょう)して新羅大明神をまつった小笠原源太夫基長の自筆「新羅大明神祀記」がある。 源太夫もまた源氏一門から出た者で、その「新羅大明神祀記」によると、近江の新羅明神は自分たちの源氏の祖神であるからからということが書かれている。 そうすると、佐々木源氏といわれる近江におこった源氏は、新羅系渡来人から出た者ということになる。 新羅・加耶系渡来人である秦氏による虎塚壁画古墳といい、常陸佐竹氏、甲斐武田氏など、これはみなそれから出た者で、常陸の国だった茨城県の古代・中世は、百済王遠宝、阿部狛(高麗)臣秋麻呂といった百済系、高句麗系の国司もいたが、那珂郡幡田郷ほか新治郡や茨城郡などにも大幡郷があったことからみて、新羅・加耶系渡来人またはその子孫が中心であったということになる。
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