さて あまりキリシタンのことを書いていなかったので ここにいちおう補足しておきます。 もちろん津軽藩におけるキリシタンのことです。
徳川幕府はキリシタンを弾圧するようになって 信者を伊豆や八丈島に島流しした。 そのうちにしっかりした監督者のいる本州最北端の津軽藩に流すことを考えた。 津軽藩はけっこう徳川幕府に協力的だと判断したのだろう。 当時、東北には伊達政宗がいて、家康から煙たがられていた存在だった。 伊達政宗は通商交渉を結ぼうとして支倉常長をスペインに派遣していた。 政宗はキリシタンではないが、スペインやポルトガルと貿易することを考えていた。 幕府が鎖国政策にふみきって、キリシタン弾圧の政策を始めても 政宗は支倉常長が帰国するまで領内でのキリスト教信者の弾圧の実施の延期願いを幕府に申し入れていたという。 とうとう、成果があがらず支倉常長が仙台に戻ってきたので、やむなく政宗も幕府の方針にしたがう。 しかし、幕府としては政宗は要注意なので、背後からにらみを利かせる意味でも、津軽藩にキリシタンの毅然とした態度をとらせたらしい。(政宗よ勝手なことをするな。津軽藩を見習え)
津軽藩はキリシタンを受け入れて荒地を開拓させた。 開拓地から農作物が収穫できるようになるまで、最低限の食料は保障していたらしい。 信者は食べるものや着るものは与えられたらしい。 本人の信仰は認める。しかし、他人に布教してはならない。 そのことは、完全な迫害ではなかったので、信者はなんとか津軽での生活を受け入れたらしい。 だが、しだいに幕府の締め付けが厳しくなってくる。 津軽藩でも、こっそり布教していたものが見つかり、火刑の刑を受けている。
今日、津軽藩に当時の信者の末裔はいない。一代きりの信仰で、子孫に布教することは厳禁されたから。 当時のキリシタンの資料もあまり残っていない。
南部藩や秋田の佐竹藩でもキリシタンがいてなんらかの措置があったという話は残っている。(佐竹藩主義宣が側室お西に棄教を迫り、彼女がそれを拒んだため、ついに追放された等) 鉱山などで働く者はキリシタンでもおとがめがなかったので、かなりの数の信者が働いていたらしい。 岩手県南、つまり当時の伊達藩の鉱山関係の場所には、そういう資料がある。 いわゆる隠れキリシタンの資料は、ここではけっこう残っている。 岩手県の水沢の後藤寿庵は有名なキリシタンで、伊達藩でも伊達政宗が存在を容認していたふしがある。 この本でも津軽藩に流されたキリシタンたちがヨーロッパ人の宣教師たちや後藤寿庵と連絡を取り合っていたことが述べられている。 ほかの本でも、伊達藩や南部藩における後藤寿庵の活動はくわしく述べられている。
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