[No.15860]
誰も語らなかった津軽キリシタン
投稿者:男爵
投稿日:2010/10/04(Mon) 10:09
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著者の坂元正哉は東大理学部卒
東京理科大、名古屋工大、東海大の教授を歴任する。
津軽藩の初代藩主為信の長男は秀吉の覚えがよく
次男は夭逝し
三男は家康にかわいがられた。
為信は外国の文物文化がほしいからキリシタンになろうとしたが
自分には妾がいたからキリシタンにはなれず
長男信建(のぶたけ)と三男信牧(のぶひら)をキリシタンにさせた。
長男はキリスト教信仰の道を進んだ。 三男は秀吉や家康がキリシタン弾圧の方針をとったのをみてキリスト教からはなれたようだ。
もしかしたら
津軽為信は真田一族のように、豊臣と徳川の両方に保険をかけたのかもしれないが
世の中が徳川の時代になっていくのを感じるようになって
直情激情型な長男の性格に嫌気がさしたのか、為信は跡継ぎには三男信牧(のぶひら)を考えた。
それは徳川にとっても望ましいことで、長男は幼い千姫の護衛役として京都におもむいたとき
京都で病死したことになっている。 本当に病死したのかは疑わしいと、この本に書いてある。
三男に家督を譲り、心配の種の長男が京都で死んだ二ヵ月後に、藩主為信も亡くなった。
三男信牧は家康の覚えもよく、正室は家康の養女天満姫である。上野寛永寺を開いた天海僧上に縁組させたのだという。
天満姫は福島正則の子正之と幼いときに結婚していたのだが福島家没落のため離縁された。つまり、津軽信牧は出戻り娘を押し付けられたのであるが、津軽藩の将来からみれば一種の保障となったのである。
信牧には実は正室がいたが、正室は自殺した。
そのとき大館の御前とよばれる側室がいたからであろうと著者は推察する。大館の御前というのは、上州新田郡大館郷の出身だからである。大館の御前は実は京都の信建の看護と身の回りの世話をしていた。
信建の死後に、信牧は大館の御前を側室としたらしい。この大館の御前が三代藩主信義を生むのである。