著者は一戸富士雄と榎森進 大月書店の本
弘前・盛岡両藩と領内のアイヌとの関係はどのようなものだったか 北海道(蝦夷地)の松前藩は、その財政的基盤が農業ではなく、アイヌ民族との交易の独占権にあったことから、アイヌ民族を化外の地としての「蝦夷地」に居住する異民族と位置づけていたのに対して 弘前・盛岡両藩は、ともにアイヌ民族を「内なる異民族」と位置づけていたところに松前藩との大きな相違点がある。 弘前藩では、藩主直轄地の百姓から一軒につき米一斗一升ずつを徴収し、これを領内のアイヌ民族への援助米としていた。 盛岡藩でも、下北半島に居住する百姓から稗を徴収し、これを領内のアイヌ民族に与えていた。 両藩とも領内に居住するアイヌ民族に対して、藩主への特産物の献上と御目見を強要した。 弘前藩の場合は、領内のアイヌの指導者層が藩主に貝玉やアワビを献上し、藩主は彼らに一人につき米二〜三俵ずつか銭一貫五百文ずつを与えた。 盛岡藩では、下北半島のアイヌ三名が盛岡城内で藩主に御目見した際、熊の皮一枚を献上し、藩主から「夷太刀(えぞたち)アイヌ用特別製太刀」一腰ずつ あかね木綿二反ずつが支給され、盛岡在住の費用と帰りの道中のための馬が与えられたという記録が残っている。 文化年間(1804〜1817年)になると、両藩とも領内のアイヌ民族を和人と同じ取り扱いをするという同化政策を実施するようになった。 これは、この時期に対ロシア関係の緊張・悪化という北方世界における国際関係の変化か背景にあったからである。
出羽三山への一般民衆の参詣はいつ頃から盛んになったのか 出羽三山とは、山形県にある月山(1980m)・湯殿山(1504m)・羽黒山(419m)の三山の総称である。 山岳信仰を基礎に、それに仏教が入り込んで本地垂迹の体系をつくっていた。 十二世紀からの末法思想の浸透とともに阿弥陀仏に救いを求める浄土信仰が急速に広まっていき、十二世紀から十六世紀にかけて 月山を中心とした初期出羽三山(上記三山の中で、羽黒山の代わりに寒河江の葉山が入っている)が設立するにいたった。 しかし、三山を総括する組織は存在せず、修験も葉山修験が羽黒修験に対して自立性を保っていた。羽黒山伏や羽黒巫女の活躍によって羽黒山信仰が北日本地域に拡大していった。 義経が奥州平泉の藤原秀衡を頼って逃げ込む時、山伏の姿であったことはよく知られているが、山伏の活躍がこの地域に受け入れられていたため山伏姿が安全であったという説もある。 江戸時、代の文化・文政期になると、一般庶民が講を組織して神社・仏閣への参詣が比較的自由にできるようになり、現在のような出羽三山信仰が一層広まった。
奥羽地方に多かった鉱山はどんな役割をはたしたか 近世の奥羽地方は、山林資源と鉱山資源に恵まれた天然資源の宝庫だった。 金・銀・銅は幕府鋳造の貨幣の原料であり、長崎貿易の重要な輸出品であったため、これらの鉱山は原則としてすべて幕府が直轄し、諸大名は産出金銀を将軍に献上したうえで、将軍から与えられるという形がとられていた。 盛岡藩領の鹿角(現在秋田県鹿角市)の白銀や尾去沢、紫波郡の佐比内、仙台藩領の気仙沼や東山、秋田藩領の院内・阿仁などである。 盛岡藩領の北上山地では、すでに十七世紀に砂鉄を利用した製鉄が行われ、近世後期には銭貨「寛永通宝」をはじめ尾去沢や阿仁の鉱山で使用される鉄製工具や奥羽関東の農民が使った鍬も多くは北上山地で生産された鉄を 原料とするまでになった。こうして「南部鉄」が発展していった。
東北地方にも被差別部落の人々はいたのか 一般に東北地方には被差別部落の人々は存在していないと思う人が多いようだが、少数だが被差別部落の人はいたという記録がある。 「明治初期各府藩県人員表」には明治初年の全国人口を府藩県ごとに華族・士族・卒・神職・僧尼・平民・穢多・非人の人口が記録されている。 それによると東北地方の被差別部落の人々は穢多と称される人々のみでも計4662人を数えている。東北地方の場合、彼らの主要な生業は皮革業であった、この方面の研究は進展していない。
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