[No.15901]
Re: これならわかる東北の歴史Q&A
投稿者:男爵
投稿日:2010/10/10(Sun) 12:09
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補足です。
> 弘前・盛岡両藩は、ともにアイヌ民族を「内なる異民族」と位置づけていたところに松前藩との大きな相違点がある。
> 文化年間(1804〜1817年)になると、両藩とも領内のアイヌ民族を和人と同じ取り扱いをするという同化政策を実施するようになった。
江戸時代には、東北にも北海道にもアイヌ人が住んでいた。
なにしろアイヌ由来の地名が東北各地の残っています。
江戸時代に松前藩のアイヌ人の対応が悪くて何度かアイヌの反乱がありました。
困った松前藩は江戸幕府に助けを求めます。
その結果、津軽藩が援軍を送りますが、そのとき津軽藩の武士のなかにアイヌ人たちも混じっていたそうです。彼らは通訳をしたり戦争の手伝いをしたという記録を富山大学の先生の講演で聞いたことがあります。
だから、江戸時代に北東北で暮らしていたアイヌ人たちはしだいに同化していったのでしょう。
> 山岳信仰を基礎に、それに仏教が入り込んで本地垂迹の体系をつくっていた。
出羽三山の信仰が神仏混淆だったのは
比叡山の最澄や空海の仏教信仰にも見られます。
既存の神道との争いを避け共存をはかるかたちでの神仏混淆は初期の仏教が日本に受け入れられるための関係者の知恵だったのでしょう。
> 東北地方にも被差別部落の人々はいたのか
> それによると東北地方の被差別部落の人々は穢多と称される人々のみでも計4662人を数えている。東北地方の場合、彼らの主要な生業は皮革業であった、この方面の研究は進展していない。
たとえば太鼓の皮ですが
盛岡のさんさ踊りの太鼓をつく技術者の伝統の店
秋田の鷹巣つづれこ太鼓
津軽の藩主の江戸での太鼓自慢あるいは津軽三味線(皮は犬の皮)
などなど、この技術者集団はほかの階級にはできなかったでしょう。
私はマタギもこの範疇に入る人たちではないかと思うのですが。
あと
書きませんでしたが
東北の夏祭りの「青森のねぶた」は津軽のねぷたの流れですが
ねぷたは、眠気をはらい水に流す習俗と、七夕祭りと盂蘭盆会が融合したものであり
秋田の竿灯も江戸時代には眠り流し燈籠または七夕燈籠と呼ばれていたことなどがあります。
仙台七夕の特徴あるアイテム、紙衣、巾着、投網などが紹介されていますが、これらはすでにメロウサロンで別の本に紹介で書きましたので省略します。