古賀政男:自伝わが心の歌
この自伝に書いているように 古賀政男の作品は、音楽評論家や純音楽愛好者から攻撃・批判されてきた。 彼が作曲活動を続けてこられたのは、大衆が彼の曲を支持してくれたからである。 音楽評論家が褒めても貶しても、歌謡曲は大衆が最後の審判者である。評論家が褒めてもレコードが売れなければだめなのである。
歌や音楽は、最高の総合的な文明批評である。 なぜなら、歴史の時代区分すなわち世相と風潮は音楽にはっきりと反映しているからである。 その時代の産業はどれほど発達していたか、技術はどれほど進歩していたのか、どのような社会が構成されていたのか、そして、その社会に生きてきた人々の思想や風潮等が、はっきりと反映しているのである。 歌謡曲は当時の時代背景を反映している。人は歌謡曲を聴くとき、その曲に結びついた自分の思い出とか、その歌の流行ったときの時代を思うことであろう。
明治大学二年生であった昭和二年、古賀は東北のひなびた温泉で剃刀を片手に自殺を考えていた。探しにきた友の声ではっと気がつき自殺を思いとどまったという。 そのあと、友のもとに戻り、宿で酒を浴びるように飲んだが酔えなかった。 この胸の苦悶のあとに「影を慕いて」ができた。
五歳のとき死別した父は瀬戸物行商人だった。必ず家族に何か買ってきてくれた。やさしかった父親の思い出がむねのかたすみにあった。父の肩をたたくと二銭銅貨をもらえた。
古賀は柳川の近くの旧田口村〔大川市〕である。カササギがいた。 白秋もカササギに望郷を託して「帰去来の詩」を唄った。
母が父の看病に行っていたとき、当時十五、六歳の姉ふじ子の傍らで過ごした。母に似て温かい心の姉を慕う気持ちは、後年西条八十の「誰か故郷を思わざる」の歌詞を見た時ギクリとした。 ひとりの姉が嫁ぐ夜、古賀もやはり小川の岸で泣いたのだった。あまりにも的確な歌詞にまるで日記を盗見されたのではないかと思ったという。
古賀の幼年時代の音楽的な家庭環境は皆無だった。 音楽をはじめとする芸術教育の効果をあげるためには、家庭環境にすごく刺激が満ち満ちているか、それとも全く無いかのどちらかがよい。中途半端なのがいちばんいけない。
昭和7年28歳になった時、古賀は結婚した。相手は松竹少女歌劇スター、コロンビア専属歌手だった。結婚は一年も続かなかった。一人娘のわがままだったらしい、女中もペットも交代させられた。 この離婚については、古賀はあまり語らない。 それから一生古賀は結婚しなかった。
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