有田芳生:私の家は山の向こう テレサ・テン 十年目の真実
テレサ・テンは1987年に香港の赤柱に住居を購入したが、1989年にパリの凱旋門から歩いて十分ぐらいのところにある家具付きワンルームを借りる。そして、1990年にはモンテーニュ大通りのアパルトマンを購入した。
彼女が中国の古典詞に強い関心を持つようになったきっかけは、「淡淡幽情」というアルバムを制作したことにある。南唐や宋の時代の古典詞に現代の作曲家が曲をつけるという企画を温め、このタイトルを考案したのは、広告会社社長の謝宏中である。「淡淡幽情」は1983年に発売され、香港のレコード大賞にあたる「アルバム・オブ・ゾ・イヤー」に輝き、日本でも中村とうようから「音楽的にもテレサの最大傑作であり代表作」と高い評価を受けた。
日本でテレサ・テンといえば、カラオケの演歌部門でベストテンに必ず入るほどの人気歌手だった。「つぐない」は死後もなお一年間に三百万回は歌われているほどである。彼女にはこの作品よりも売り上げの多い「時の流れに身をまかせ」や「愛人」「別れの予感」といった数々のヒット曲がある。 こうした作品の印象から演歌歌手という狭いジャンルに閉じ込められたのがテレサ・テンでもあった。 ところがテレサの世界は、中国語圏全体に広がっていた。日本での話題だけにとらわれていては、その全体像を歪めてしまうことになる。
しかも現実の彼女は、音楽だけではなく、政治にも強い関心を抱いていた。香港在住のテレサの友人は、彼女が政治を話題にするのをしばしば聞いていた。 「アメリカの大統領のスピーチは間違いが多いですね」と語ったこともあれ ば、中国や台湾をめぐる国際政治を話題にすることもごく普通だった。
「香港を離れるにしてもどうしてパリだったのか」と訊ねると「やっぱりパリじゃないですか。アーティストとしてね」とうれしそうに微笑んだ。 「パリは洗練されているというか、あまり優しくないというか。イタリア人やスペイン人ほど明るくないと思っていたんです。フランス人はちょっとスノップ。でも、アーティストとしては勉強になりますし、それに言葉がきれいでしょう。それでパリを選んだんです。いちばん好きなのはカンヌがある南フランスです。天気も好きですね」
上で紹介したインタビューは、1992年7月広島で平和音楽祭に来日したときのもの 「香港は優しいですね。うん、まず言葉が通じる。それに海鮮料理が最高に美味しい。すごくのんびりというか、贅沢な生活ですよね。パリは言葉もわからなくてとても寂しい。だから香港にいてもいいのですけれど、そのままで人生終わっちゃうなと思って。ちょっともったいないなって感じたので、チャレンジしようと思ったんです。それに天安門事件があって、なんか夢が覚めたみたい」
テレサは香港で天安門事件に反対するコンサートをしたが、それで多くの学生が殺されたと思っていた。 その後、彼女はパリで天安門事件に抗議するコンサートを計画していたのだが、なぜか中止してしまった。
香港が中国に返還されることが決まったのは1984年 だが、一国二制度方式による返還が合意されことをきっかけに 87年ごろからアメリカ、カナダ、オーストラリアなど海外への移住が増え始めた。中国共産党の一党支配への不安があったからである。 その危惧をいっきょに現実のものとしたのが天安門事件だった。中国への不信は、さらに海外移民を促すことになった。
そのあと 1994年10月仙台でのインタビューでテレサは語る。(これが最後だった) 「私のこれからの人生のテーマは中国と闘うことです」 彼女が翌年に香港で長い時間を取って話をすると約束したことは、半年のちの95年5月のテレサのチェンマイでの急死で実現しなかった。
この本のタイトルの「私の家は山の向こう」とは 天安門事件のあとに香港での北京の学生運動の民主化を支援するため 5月27日に香港でのコンサートで唄った歌だった。 すなわち「我的家在山的那一辺」という歌で、これは日中戦争当時、張学良から東北守備の放棄を命じられた東北軍の望郷の思いがそこには込められていた。その後、大陸から台湾へ逃れてきた兵士たちが1960年代に入り、歌詞を変え望郷の念にかられて歌った歌だった。 かつての抗日歌が反共歌として生まれ変わったのである。
天安門事件の起きた年にはベルリンの壁の崩壊があった。 天安門事件が起こって東ドイツの中国大使館に対する抗議デモがやがてベルリンの壁崩壊につながったと、この本の著者は考えている。 天安門事件の年の11月20日にテレサはパリに行く。フランス政府は中国からの政治亡命者が希望すれば積極的に受け入れた。 天安門事件のあった年にドイツ統一が成立しベルリンの壁崩壊があった。この年はフランス革命から二百周年を記念する年でもあった。
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