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[No.16437] 山田清子:唱歌145曲の散歩道 投稿者:男爵  投稿日:2011/01/19(Wed) 12:59
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朝日新聞社の本  1992年


「埴生の宿」とは「土の上にむしろを敷いて寝るような粗末な小屋」

故郷の空(夕空はれて あきかぜふき...)
  しかし、原詩の直訳は
    麦畑で だれかとだれかが会っている
     キッスしてもいいんじゃないの
    だれにも好きな人はいるっていうけど
     私には いません
    だけど 麦畑で会う男の子は
     みんな私に にっこり笑いかけます

誰もが感じることだが、同じ歌でも曲名や歌詞がまちまちである。
この著者は音楽の先生なので
つい教科書に頼ろうとすると
それがあてにならないことに気がつく。
 「ふじの山」と「ふじ山」「富士山」
 「とんがり帽子」と「鐘の鳴る丘」
「雪の降る街を」でさえ、降るとふる、街と町とまちが、それぞれ適当に組み合わされ、五、六とおりの表記が使われているという。
「月の沙漠」も、沙と砂が混用されている。(サバクには水が乏しいのだから、沙がよいとものの本に書いてあります)

歌詞となると、漢字の使い方、送り仮名など、統一はもう至難のわざとなる。

詩や短歌は、仮名遣いはもちろん、句読点や改行も文学表現のひとつ、と国語では教わるが
曲がつくと、原詩のオリジナリティーもつい無視されてしまうようである。

この先生も授業の中で
「兎おいしい(追いし)」、「柿(垣)に赤い花さく」。「どんぐりころころどんぐりこ(ドンブリコ)」といった解釈をする生徒を笑ってきたが
教師もまた、かなりいい加減だったようだと気がつき
もっと言語表現に気を使わなければならないと反省をして、まとめている。


[No.16438] Re: 山田清子:唱歌145曲の散歩道 投稿者:   投稿日:2011/01/19(Wed) 18:47
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> 朝日新聞社の本  1992年

この本はすらすらと読めます。
書いてあることは特に新しいことではなく
そうそうと思いながら読んでしまいました。

贈る言葉
 暮れなずむ町の 光と影の中
  去り行くあなたへ 贈る言葉
    .....
  人は悲しみが 多いほど
   人には優しく できるのだから
三年B組金八先生は武田鉄矢の当たり役 
 坂本竜馬にあこがれ高知大学文理学部(現:人文学部)を受けたが合格せず、福岡教育大学教育学部に入学。しかし、7年在籍するも中退。母親は学費を払い続けた(たとえば五木寛之は授業料未納で除籍された。そうなると在籍の履歴もなくなる。もっとも五木は後に授業料を払い中退扱いとなる)。
 無駄になった母の払った授業料だったが、芸能界で成功した息子は母に大金を贈る。それから、母は全面的に息子の支援者となって協力した。

聖しこの夜
モーツァルトの生地ザルツブルクに行った時、もう少し足をのばして
聖夜ゆかりの町を訪れた著者。
クリスマス時にオルガンが壊れたので、やむなくグルーバーはギターを弾いて作った曲を披露した。
 Stille Nacht, heilige Nacht この歌は1818年のクリスマスに
 モーツァルトの生地ザルツブルクから車で20分ほど北へ行った
 小さな村、オーバーンドルフでつくられました。

 この村のザンクト・ニコラウス(聖ニコラウス サンタクロース)
 教会のヨーゼフ・モール副司祭が歌詞をつくり、友人のオルガニスト
 フランツ・グルーバーに渡したのが12月24日の朝。羊飼いの笛
 の音をヒントに作曲したのがその夕方。

 その真夜中のクリスマス礼拝に、モール副司祭がテノールを歌い、
 ギターで伴奏してグルーバーがバスを歌い、教会の青年たちが
 終句をくりかえし歌いました。

 オーバーンドルフ Oberndorf のその教会堂 St. Nikolaus Kirche
 は、後にザルツァハ川の洪水で流されましたが、ふたたび建てなおし
 たものが今も村の中に立っています。            

英語の聖夜の歌詞 silent night, holy night はドイツ語の歌詞を
英訳したものだということがわかる。
Stille Nacht, heilige Nacht → silent night, holy night

四季の歌
  ....
 冬を愛する人は 心広き人
 根雪をとかす大地のような ぼくの母親

雪の博士高橋喜平さんの講演を聞いた時
まず聴衆の雪に対する知識を問うといって(そのレベルに応じた話をするから)
春先に雪は上から溶けるか下から溶けるかという質問をしました。
私は北海道の経験で、春先雪は上から溶けるので、上の雪をスコップで削り取るとその下にある土の上の雪は固く残っているのを見ていましたから、上から溶けるというのに手を挙げたのですが。
この歌のせいか、下から溶けるという人が多かったようです。
高橋喜平さんは十日町の営林署に勤めていて、天皇陛下に雪の説明をしたとき
天皇陛下から「雪国で何か明るい話題はないか」と聞かれて
それから十日町の雪祭りを考えたそうです。 雪を楽しむ祭り。
十日町の雪祭りは札幌の雪祭りより早くに行われたのです。