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[No.16443] 江と春日局と宮沢賢治 投稿者:男爵  投稿日:2011/01/21(Fri) 05:39
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昨日は江戸東京博物館で「江」の展示を見てきました。
徳川将軍三代目を誰にするかで、春日局が登場するのですが
ここでなぜ宮沢賢治に結びつくのか、わからないでしょう。

そこで、類似性を述べてみたいと思います。
  結論はこのあとで。

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「江」は徳川秀忠の正室です。
徳川秀忠は徳川家康の三男でしたが、長兄・松平信康は死亡するし、次の兄・秀康は豊臣秀吉の養子に出され、のちに結城氏を継いだので、秀忠が家康の実質的な世子として処遇され将軍となります。

「江」も秀忠も、秀吉の支配から逃れられず、結局はその縁で結婚されられたようなもの。
しかし、彼らの息子たちの中から次の将軍は選ばれ
娘の千姫は数奇な運命をおくりますが、末娘は後水尾天皇中宮となり次期天皇を産みます。

次の将軍を誰にするか
秀忠夫妻は、息子たちの中で、兄家光よりも弟忠長のほうが有能に思えて、忠長を次期将軍にしたかった。
ところが、これに危機感を感じたのが家光の乳母の春日局
春日局は伊勢参りに行くと称して密かに江戸を出て、駿府の家康のところに行き、自分が育てた家光を次期将軍にするよう家康に願出ます。
やはり年齢の順がよかろうという家康の判断で、家光が結局将軍になりますが、弟の忠長は内心おもしろくなかったのでしょう、以後行動がおかしくなり、蟄居を命ぜられそれから切腹させられます。

おそらく、秀忠と「江」の夫妻は、幼い時から春日局に育てられた兄の家光よりも、ずっと手元で育てた弟忠長のほうがかわいかったから、忠長のほうを将軍にしたかったのでしょう。
逆にいえば春日局は自分が乳母として育てた家光をかわいそうな目にあわせたくなく、家康に頼みこんだのでしょう。

江戸道鏡博物館の展示では、江つまり崇源院の霊廟に関する展示がありました。
芝増上寺に江(崇源院)の霊廟はあったのですが
昭和二十年の東京大空襲で焼失してしまいました。
ほかにも歴代将軍関係の華麗な霊廟などがあったわけですが、これらの世界遺産級の価値のあるものが戦災で失われたのです。

本来は、芝増上寺に江(崇源院)の霊廟はあったのですが
そのほかにも江(崇源院)の霊廟があったことが、この江の展示のときに見つかったのです。
それが会場では最後のコーナーに展示されてあった
崇源院宮殿(くうでん)です。
 宮殿は霊廟の中の大事な中心部に相当するものです。宮殿は厨子に相当するものとの説明がありました。
この宮殿は最初静岡の宝台院にあったものが目黒の祐天寺に移されのです。
そういう言い伝えがあった崇源院宮殿を調べたり、忠長の手紙などを調査した結果
崇源院宮殿の本物に間違いないということがわかったのです。

忠長は江戸にある母親崇源院の霊廟のほかに、彼の城のあった静岡にも霊廟を密かに作らせたのですが
それが江戸にも知られ、母崇源院の三回忌の時、江戸に行くことを禁じられ(静岡にあるのならわざわざ来る必要はない)残念という手紙も残されています。
息子としては自分をかわいがってくれた母親の霊廟を建てたのは当然のこと、だから、忠長は乱暴ものではなく心やさしい人物だったのだろう、彼の乱心は後世のつくりごとだったのではないかとこの企画を考えた江戸博の学芸員は、ラジオ深夜便で述べていました。
それで、昨日は早速、江戸東京博物館に見学に行ったのでした。


[No.16444] Re: 江と春日局と宮沢賢治 投稿者:   投稿日:2011/01/21(Fri) 06:08
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> 昨日は江戸東京博物館で「江」の展示を見てきました。
> 徳川将軍三代目を誰にするかで、春日局が登場するのですが
> ここでなぜ宮沢賢治に結びつくのか、わからないでしょう。
>
> そこで、類似性を述べてみたいと思います。
>   結論はこのあとで。

つぎは宮沢賢治です。
賢治は父親の家業の質屋を嫌がっていました。
マルクスの影響を受けた学者・知識人の影響でしょうか。
谷沢永一の指摘するように、若い人たちを苦しめた「知識人の毒」でしょうか。
マルクスさえ出せば、自分たちの支配が正当化される(まあ脱線するからやめておきますが)そういう人たちは、日本だけでなく外国にもいます。

質屋や金貸しがいなかった困る人も出てくる。
だいいち、銀行と質屋は本質は同じ(経済を動かしている)。ということは賢治は思い至らなかった。
彼はゆっくり自殺をしたのだと私は思っています。
まあそれはさておき
本題にもどりますと
賢治は父親の商売はいやがっていたが、父親の金は利用しました。
ぜいたくができたのも父親のおかげ。

賢治は父親から大金をもらってセロを買います。立派なセロでした。
賢治はセロを弾いたが、あまり上手ではなかったといいいます。
賢治の友人にやはりセロを弾く人がいて、盛岡で演奏会に出ることになりました。
この友人は貧しいから立派なセロは買えません。だから質のよいとはいえない楽器でした。
それを見た賢治は、自分のセロと交換してあげました。
賢治が友だちから代わりにもらったセロには穴があいていました。小さな穴でした。
この穴を見て、賢治は「セロ弾きのゴーシュ」の中で、子ネズミが穴からセロの中に入るというアイデアを思いつくのです。

さて
賢治が死んでずっとあとに、花巻も空襲を受けました。
大事な賢治の遺品はほとんど戦災で失われたといいます。
花巻の宮沢賢治記念館には、賢治のセロというのがあり展示されています。
このセロは親切な賢治が友だちと交換してあげたセロなのです。
友だちの買った穴のあるセロは戦災で焼け、盛岡の友人は大切にしていたセロが、友人の死後に宮沢賢治記念館に寄贈されたというわけです。
 情けは人のためならず

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おわかりでしょうか
江(崇源院)の霊廟も賢治のセロも戦災で焼失してしまった。
しかし
もうひとつあったから残された。バックアップというか控えは大切なことです。