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[No.15586] 長谷川洋子:サザエさんの東京物語 投稿者:男爵  投稿日:2010/08/02(Mon) 13:07
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長谷川町子は真ん中で、上の姉がまり子で、下の妹が洋子である。

著者洋子が女学校時代では裁縫が苦手で
姉まり子に縫ってもらった夏休みの課題のベビー服のことで
職員室に呼ばれ説教された。
そのあとで、数学の先生に慰められた。
そして「教頭先生もね、長谷川さんは生まれたまま大きくなったような人で真っ直ぐな気性のところがいいって。いわば野蛮人のような子だけど、そこが美点だから、損なわないでほしいって言ってらしたわ。よかったわね」と言ってあわただしく去っていった。
さすがに著者も野蛮人と言われて他に言葉はなかったのかと思うが、問題児を励まそうとしてくれた温情は感謝したのだった。

何かに気を取られると夢中になって、他のことは目にも耳にも入らなくなる人がいるが、
町子姉もその一人で、本人は「類(たぐい)まれな集中力」と主張している。
その集中力のおかげで何度もスリに会ったし、映画館の中では膝にのせていたハンドバッグを持っていかれた。
 芸術家や学者はたしかに集中力があったほうがよい作品ができるが
 他のことは注意の外になってしまうから、もの忘れをしたり、不始末が出てくる。
 ニュートンがゆで卵をつくろうとして時計をゆててしまった故事なども、この「類(たぐい)まれな集中力」の例であろう。 

三姉妹で結婚して子持ちなのは著者だけであったが
その著者も35歳の夫と死別している。夫はがんであった。
若いときのがんのため、がんの猛威をつぶさに見た著者たち
とくに町子姉はそのときから、がん恐怖症になった。
「もし私ががんになったら自殺するからね。治る見込みもないのに、あんなに苦しめられるなんて我慢できないわ」と宣告した。

ところが、町子姉はがんになってしまった。
毎日四時頃に新聞社のオートバイが原稿を取りにくる。
スランプになって、できばえがよくなくても、どんなに気に入らない作品であっても
一枚はしあげて渡さないといけない。
それは大変なストレスであった。ストレスで胃が痛んだ。
いつもとは様子が違うと感じた著者は、かかりつけの医師に再検査してもらった。
そして
医師から、本人には内緒でといって、がんであることを著者に告げた。

医師は癌研に紹介状を書くというが、「がん」の字は患者にショックを与えると思った著者は
ツテを求めて、東京女子医大で手術をするよう動く。
さて
東京女子医大でレントゲン写真を見た先生は
「たしかにマーゲン・キャンサーだね」といいながら
周りの若い医師たちに示す。
 これを読んだ私は、あれあれ、マーゲンはドイツ語で胃のことだ。
 キャンサーは英語で癌のことだ。ドイツ語+英語だ。
 そう思ったのでした。

三姉妹を女手ひとつで育てた母親は、士族という誇りが人生のバックボーンになっているのか
しっかり者だった。
しかし、七十代後半になって痴呆が進み娘たちの見分けもつかなくなった。
隣町にまで遠征して、お巡りさんに連れられて帰ってくることが度々となった。
夜中、家の中を徘徊して台所でガスをつけたり、マッチをすって屑篭に捨てたりするようになって、娘たちも母親を施設に預けることを考える。

まり子姉が知人から八王子のほうの大きな病院では、痴呆老人のためのホームも併設されていると聞いてきて、
設備が整っていて評判もよいという噂もあるから、相談の結果そこに母を入院させることにした。

ところが、評判とは大違い。見舞に行く度に母の顔つきが険しくなり
はじめのうちこそ廊下を歩き回っていたが、二週間ほどで寝たきりになり、いつ行っても眠ってばかりいるようになった。
あるとき隣の患者から「長谷川さんは一日中手足をベッドに縛りつけられているんですよ。それで食事も拒否するし、点滴も暴れて受けないので、だんだん衰弱してこられて心配でねぇ」と聞かされる。
家族が見舞いに来るときは一階から連絡があり、すぐ紐を解いて手足を自由にするらしい。

結局、姉妹たちが相談して、家族にとってかかりつけのような病院に転院させることにした。
さて、八王子の病院に転院を申し出ると
「とんでもない、あの状態で運んだら途中で何が起こるかわからない。命の保証はできませんよ」と脅かされたという。
二ヶ月足らずの入院ですっかり足腰の弱った母親は、一人で歩けないほどであったが、新しい病院では顔の表情も柔和になり七年間暖かい看護を受けて91歳で亡くなったという。
 患者本人と施設との相性もあるが、虐待まがいのことがある世界なのだろう。他人事ではない。