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[No.15966] エスペラント 異端の言語 投稿者:男爵  投稿日:2010/10/26(Tue) 10:39
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著者の田中克彦は言語学とモンゴル(語)学の専門家、一橋大学名誉教授
    岩波新書1077

岩波新書には
すでに、ウルリッヒ・リンス著・栗栖継訳「危険な言語」というエスペラント語の本があるが
なぜか絶版になっている。
たいていの図書館にはあるが奥の倉庫に入っている。

さて、この本であるが
例によってポイントをメモ書きする。
・ポーランド(当時はロシア領)に住むザメンホフというユダヤ人が新しい言語を考案して発表した。それはエスペラントという名で広く知られるようになった。
・「エスペラント」はフランス語のエスポワール(希望)、スペイン語のエスペランサなどと同源の「希望する人、物」という意味のエスペラントの単語であって、人類の希望の言語という意味がこめられている。
・ザメンホフははじめ、考案者である自分の名をそう名のったからで、言語もまたその名で呼ばれた。
・1922年には、新渡戸稲造と柳田国男が共同で国際連盟にはたらきかけ、世界中の公立学校でエスペラント語を教えるよう決議を求めた。提案は、フランス語以外の言語は世界語たる資格がないと主張するフランスの強い反対を押し切って可決された。
・ソ連では1930年にスターリンが将来は人類はひとつの言語を話すようになるであろうと演説したために、ソ連のエスペランチストは国家の最高権力からも支持が得られたと誤解した。しかし、1937年には当局はソ連エスペラント同盟に解散を命じて、エスペラントに対する大弾圧を始めた。
・ヒトラーもすでにその前年にエスペラント運動を禁止していた。

・日本最初のエスペラントの学習書を書いて出版したのは二葉亭四迷だった。
・日本におけるエスペラント普及に関して、特別の役割を果たした人としてフィンランドのアルタイ語学者ラムステットがいる。
・1898年にラムステットは若い妻と生まれて数ヶ月の娘を連れてモンゴルの旅に出かけた。
・ラムステットはモンゴルの旅から20年後に、初代公使として日本に赴任した。フィンランドはロシア十月革命の結果として、1917年に独立を宣言した。そして、中国の公使をも兼任する外交代表として日本に赴任したのである。公使は事実上は大使に相当した。
・日本で多くのエスペランチストに迎えられた。英語ができない彼は、日本各地に招かれた講演はすべてエスペラント語でやり、それを各地のエスペランチストが日本語に翻訳した。
・柳田国男はラムステットを通じて、フィンランドの民俗学にふれたのみならず、エスペランチストともなった。
・1926年、宮沢賢治はたまたま上京したときにラムステットの講演を聞き、「やっぱり著述はエスペラントによるのが一番だ」と言われたことに刺激を受け、丸ビルの旭光社でエスペラント語を学んだ。
・賢治は自分の作品が日本の外にも知られることを願っていたらしく、自作のいくつかの短歌や詩を自らエスペラント語に翻訳した。
・賢治は作品の舞台をエスペラント語で「イーハトーヴォ」と名づけた。イーハトとはイーハテつまり岩手を指している。テがトになっているのは、語尾がoで終わるというエスペラント語の文法に従って名詞語尾としたからである。次のオーヴォとはovo(卵)である。「イーハトーヴォ」とは岩手の卵という意味で使ったのである。