文春新書259
著者は吉本興業で長い間、吉本新喜劇の作・演出を手がけ この本の当時は、帝京平成大学情報学部教授である。
花菱アチャコ ケチで一生をおくったが大金を貯めて死んだ。 64歳のアチャコは25歳の著者に「舞台がはねたらビールの飲み比べして負けたほうが払おう」という賭けをもちかける。 若い著者は、しめたこれでただで飲めると賭けに臨んだ。2時間で著者13杯、アチャコ15杯で、若い著者は賭けに負け二日酔いで苦しむ。 昭和20年3月大阪は戦災で吉本演芸場もすべて丸焼け、演芸人にみな暇を取らしたが、アチャコだけは行くところがないと無給で残ることにした。 戦後にお笑いが求められ、全国からお呼びがかかったが、(ほかの芸人は誰もいないから)ほとんど独占的にアチャコが稼いだ。これは彼が予想したとおりだった。頭のよいアチャコ。
トニー谷 著者はトニー谷が嫌いという。しかし、芸人として存在感のあった芸人だった。 銀座生まれで、母は三味線・小唄・長唄のお師匠さんだった。 戦争中は南京や上海の軍隊にいて、昭和20年に引き上げてからアニーパイル(東京宝塚劇場)の制作に二年勤めてから、赤十字クラブに二年、横浜シーサイド・クラブに一年いた。 昭和27年に有楽町日劇に「ミュージックホール」が開場したとき、珍司会者として脚光を浴びる。 「レディス・アンド・ジェントルメン・アンドお父っつぁん、おっ母さん、お今晩は.....ジスイズ・トニーの谷ヤンざんす」 「はべれけれ」だの「ありつれば」だのという妙な言葉をつかったりして、当時の有名タレントをぼろぼろにけなした。 「なんザンしょね。あのヘンネシーワルツ(テネシーをもじり大阪弁で偏屈ワルツ)のゲリ(下痢)チエミ(江利チエミ)に、アホのドナリヤ(青いカナリア)の雪村ネズミ(いづみ)なんてサ」 あまりの無礼なふるまいに、舞台監督をしていた著者は怒った。とうとうトニー谷は土下座して謝ったという。「まことにあたしが悪くありつれハベレけれ」このとき著者はトニーの鬘をバラすぞと言ったという。
伴淳三郎 「あなたはアジャーで、わたしはパーよ! アジャパー!! 一杯やっか!?」出世のきっかけを作ったギャグ 大阪ミナミの興行街では、吉本は演芸部門、松竹は演劇部門で営業するという暗黙の了解があり、均衡がとれていた。 昭和14年 吉本興業の林正之助が東宝社長小林一三に乞われて東宝取締役に就任してから、吉本と松竹の均衡がくずれた。 松竹と東宝は映画・演劇のライバル社であったから、松竹にとっては心穏やかでない。そんな形でライバル側を支援するならこちらにも覚悟があると、極秘に吉本の芸人の引き抜きをはじめた。 松竹傘下の新興キネマの撮影所長永田雅一(のち大映社長)が伴淳三郎に大金を与えて吉本の芸人を引き抜かせた。 エンタツ、アチャコ、石田一松などの看板的芸人は残ったが、ほかはみな引き抜かれてしまったという。 昭和29年、榎本健一を会長とする東京喜劇人協会が発足すると、大阪でも対抗して32年に関西喜劇人協会が設置され、会長に伴淳三郎がなった。 伴会長の協会は第一回公演を大阪毎日ホールで行ったが豪華メンバーが揃った。伴、アチャコ、堺駿二、赤木春恵、杉狂児、渋谷天外、曾我廼家明蝶、五郎八、ミヤコ蝶々、大村昆、森光子、高田浩吉、フランキー堺、トニー谷、古川ロッパ、森繁久弥、藤田まこと... 当時の伴は政治力があった。 「飢餓海峡」の撮影中に急死した川島監督の遺志をついで、伴は障障児救済のために「あゆみの箱」作りをはじめた。森繁もその運動に共鳴したので伴は百万の味方を得て、この運動は発展し昭和41年に社団法人「あゆみの箱」が発足した。
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トニー谷は死んだが、彼の名残としてのイヤミがいるだろう。 「シェー」「イヤミざんす」
苦労人の伴淳三郎、しかし、セリフ覚えは悪く、政治的つまり策士として裏で動く姿を渥美清は毛嫌いしていたという。おそらく嫌いなタイプだったのだろう。
この本の最後に 吉本興業の功労者である吉本せいと林正之助のことが書かれてあるが 林正之助は吉本せいの弟である。 吉本せいは夫泰三のはじめた吉本興業を夫の亡き後、林正之助と二人で発展させた。
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