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[No.16299] 松井永人:土方歳三北海の剣 投稿者:男爵  投稿日:2010/12/21(Tue) 08:07
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新撰組の土方歳三は
近藤勇と別れて
榎本武揚の函館新政府(蝦夷共和国)の運動に参加する。

この本は小説なので、史実とどこまで一致しているかは、かなり疑問であるが
土方歳三のかっこうよさをうたっている。
彼を追って函館まで来たタネを、土方は戦いを前に抱こうとはしない。
結局むなしく江戸に帰ったタネは芸者をして一生をおくり、新政府の要人や財界人など多数の男性から落籍させたいという声があったが、決して受け入れなかった。彼女は芸者時代の蓄財を資金に調布で小さな店を開いて大正時代まで生きた。彼女は人に知られることもなく、調布市の寺に眠るという。

日之出龍之新という武士について剣を習って四国で人を切ったという新吉は、南部の宮古の鍬ケ崎の出身だった。
新吉は土方の部下となって蝦夷地で働きたいという。彼の腕をみて土方は使えそうだと判断して榎本に頼んで函館ではたらくようにしてやる。

これは小説なので
土佐藩士の橋村巳之介が土佐でスカウトしてきた佐倉金伍・八兵衛の兄弟も
蝦夷地での戦いを覚悟している。こちらは新政府軍なのだが
実は佐倉兄弟の父を切ったのが新吉であり、彼らははからずも敵討ちをすることになる。

この小説のクライマックスは
宮古港海戦である。
 江戸を敗走して函館の五稜郭にたてこもった榎本武揚以下の旧幕府軍を討伐するため
 新政府の軍艦「甲鉄(こうてつ)」など8隻が1869(明治2)年3月18日、食料・燃料の補給のために宮古港に停泊した。
 函館の旧幕府軍はこれを察知し、機先を制してこの装甲新鋭艦「甲鉄」を奪取する計画をたてた。
 総指揮に荒川郁之助、「回天」の艦長に甲賀源吾、そして新撰組の土方(ひじかた)歳三もこの軍艦に乗り込み、「蟠竜ばんりゅう」「高雄たかお」の2隻とともに
宮古に向かった。
 しかし、この2隻は途中大風にあい、結局「回天」のみが宮古港に侵入することになった。
 3月25日未明のことである。「回天」は、米国旗を掲げ「甲鉄」に近づくと
にわかに日章旗にかえ、大砲をうち、抜刀隊がつぎつぎ「甲鉄」に飛び降りた。
 「甲鉄」は修羅場と化したが、激戦30分で旧幕府軍の敗北は決定的となり、湾外に敗走した。
http://kilkhor.cc.iwate-u.ac.jp/~hitoaki/cgi-bin/hw_form.cgi?FName=../hwi/ih131.txt

このとき若き東郷平八郎がいた。
彼の活躍で新政府軍は勝てたという人もいるが、当時最強の装甲新鋭艦「甲鉄」をもつ新政府軍に対して、函館側は軍艦2隻が参加できず唯1隻での突入では、はじめから劣勢であった。
強運のもちぬしである東郷平八郎は、後に日露戦争でも活躍した。

榎本武揚は、江戸下谷御徒町(現東京都台東区御徒町)に生まれた。
父箱田良助は、備後国安那郡箱田村(現広島県福山市神辺町箱田)出身で、榎本武兵衛武由の娘みつと結婚して、婿養子として幕臣となった。

榎本武揚は、幼少の頃から昌平坂学問所で儒学・漢学、ジョン万次郎の私塾で英語を学び、19歳で箱館奉行堀利煕の従者として蝦夷地箱館(現北海道函館市)に赴き、樺太探検に参加する。
安政3年(1856年)には幕府が新設した長崎海軍伝習所に入所、蘭学や航海術・舎密学(化学)などを学んだ。

文久2年(1862年)から慶応3年(1867年)までオランダに留学。国際法や軍事知識、造船や船舶に関する知識を学び、幕府が発注した軍艦「開陽」で帰国した。

慶応4年(1868年)、徳川慶喜が大政奉還を行い、続いて戊辰戦争が起こった。
開戦直後、榎本の率いる旧幕府艦隊は大坂の天保山沖に停泊していたが、鳥羽・伏見の戦いで旧幕府軍が敗北すると、大坂城にいた慶喜らは、主戦派の幕臣に無断で旗艦「開陽」に座乗し江戸へ引き揚げた。

新政府軍が江戸城を無血開城すると、徳川家に対する政府の処置を不満とし榎本は抗戦派の旧幕臣とともに開陽、回天、蟠竜、千代田形、神速丸、美賀保丸、咸臨丸、長鯨丸の8艦から成る旧幕府艦隊を率いて脱出する。
新選組や奥羽越列藩同盟軍、桑名藩藩主松平定敬らを収容し蝦夷地(北海道)に逃走、箱館の五稜郭に拠り、所謂「蝦夷共和国」を樹立して選挙により総裁となった。

翌明治2年(1869年)、「開陽」座礁沈没、戦費の枯渇、相次ぐ自軍兵士の逃亡、新政府軍斥候による弁天台場砲台閉鎖、箱館湾海戦による全艦喪失など劣勢は決定的となり、榎本は降伏した。
降伏を決意した榎本は、オランダ留学時代から肌身離さず携えていたオルトラン著「万国海律全書」を戦災から回避しようと蝦夷征討軍海陸軍総参謀黒田清隆に送った。
黒田は榎本の非凡な才に感服し、助命しようと各方面に説諭、榎本の命を救った。そのため黒田は坊主頭となった。

明治5年(1872年)榎本は特赦出獄、その才能を買われて新政府に登用された。同年3月8日、黒田清隆が次官を務める開拓使に四等出仕として仕官した。


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