日本の歴史が動いた20の大転機 武光誠:日本の歴史が動いた20の大転機
この本で知った昔の出来事
マードレ・デ・デウス号事件 1609年 ポルトガル船を撃破する 日本史上初の西欧列強との戦い ヨーロッパ諸国の海軍やキリシタンに対する幕府の恐れをつよめ、鎖国のきっかけとなった重要事件。 ポルトガル船を打ち沈めたのは九州の大名有馬晴信である。 このころ、有馬晴信はしきりに朱印船を出して、南方の国々と取引をしていた。 1608年、ベトナム南部に香木伽羅を買い付けに行った有馬家の船が、風待ちのためマカオで越年した。 このとき、マカオ当局が日本船員のいた一軒の家に火をつけ飛び出した60名あまりを銃殺した。 翌年この事件を起こしたマカオ総督ペッソアがマードレ・デ・デウス号で長崎にやってきた。 ペッソアは駿府にいる家康に、日本人のマカオ渡航の禁止を求めるため来航した。 日本人が中国の生糸の買い付けするのを禁じ、自分たちで生糸貿易を独占しようとしたのだ。 日本の貿易商はペッソアに反発した。そこへ、マカオで家来たちをペッサアに殺されたという有馬晴信の訴えが届いた。 そこで家康はペッソアを召還して事件を取り調べようとした。 これを知ったペッソアは急いで長崎の船に戻り出帆準備を急がせたところを、有馬晴信は船で取り囲んだ。 小競り合いの戦闘状態が続いた。 4日目にマードレ・デ・デウス号は油をひたした布を巻いて火のつけた鉄球を受け帆が燃えて動けなくなり、観念してペッソアは火薬庫に火をつけ自爆した。 このあと、マカオのポルトガル人はペッソアだけを悪者にした弁明使節を江戸に送ってきた。彼らは日本貿易の莫大な利益を手放したくなかったのであろう。
モリソン号事件 1837年 日本人漂流民(音吉ら7人)を乗せたアメリカ合衆国の商船を日本側砲台が砲撃した事件。 漂流民の中に薩摩出身者がいたので、モリソン号はこのあと薩摩に寄ったが薩摩藩からも砲撃された。しかたなく、モリソン号はマカオに向かった。7人の日本人たちは外国で生涯を終えた。 これに懲りたアメリカの船は、次回には強硬な態度をとり、日本に開国を迫った。 ペリーの強い態度には、こういう歴史があった。
フェートン号事件 1808年 長崎港で起きたイギリス軍艦侵入事件。ヨーロッパにおけるナポレオン戦争の余波が極東の日本にまで及んだものである。 オランダはフランスに支配された時代、世界中からオランダという国が消された一時期に唯一か所オランダ国旗が翻っていた場所が長崎であった。
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