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[No.15410] 高森栄次:想い出の作家たち 投稿者:男爵  投稿日:2010/06/24(Thu) 11:40
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著者は石川県輪島の出身、それゆえ王監督の母親の先祖と同じ出身なので、王監督とは遠縁にあたる。
博文館の編集者として20年勤務して、戦後には博文館の同僚と博友社を創立、約30年編集を担当した。

真山青果は劇作家である。
 著者が編集部に入って駆け出しのころ、頼んだ覚えのないのに「原稿ができたがとりに来ないか」と電話があり、真山青果は頼まれて原稿を書くのではなく、書きたくなると勝手に書いて、出来上がった作品をそれと覚しき雑誌社に声をかけることを知っていた編集長は、その原稿を取りに行くよう著者に命令した。
 駆け出しの編集者とはいえ、せめて現行の枚数や筋立てくらいは知ったほうがいいとと思い「先生、どんなお芝居でしょうか、どのくらいの枚数でしょうか」と聞いたら「うつけ者め、真山の作品の筋立ていかにはとんでもない奴、書いただけが分量だ。黙って頂戴して帰ればよかろう」と大喝された。
 「乃木将軍」という新国劇沢田正二郎の当り芸となった有名な芝居の脚本であった。

著者が「譚海(たんかい)」編集長のころ
 いま錚々たる作家たちが、まだほとんど無名だったころであった。
その「譚海」に原稿を書いていた作家の中に富田常雄がいた。
山岡荘八がいた。村上元三、山手樹一郎、大林清、鹿島孝二、そして山本周五郎がいた。
 これらの連中が毎月著者のところに押しかけてきて、これから書こうとする小説の筋だけほ喋りまくって、空手で原稿料をせしめていった。
 何年かたって、著者は「譚海」から他の部に異動することになり、富田はじめ、山岡、大林、山手、村上の作家たちが、著者を塩原温泉のいずみ屋旅館に招いて、一晩「前借を感謝する会」を開いてくれた。
前借の大代表山本周五郎が何かの都合で欠席したので、その夜の代表挨拶は富田常雄であった。

 この本の座談会では、山本周五郎がいつも若い作家に意見を言って、みんなから恐れられ敬遠されていたということが述べられている。
山本周五郎は医者嫌いで病院には一度も行かなかった。そのくせ専門の医学雑誌を読んでいた。自分が病気であることを知るのが怖かったらしい。医者にかからないという点では、五木寛之が似ている。やはり医学書を読んだり医者と対談をしていて、健康には関心があるのだが。
 山手樹一郎というペンネームは、最初は山本周五郎が複数のペンネームを使う都合上使っていたのだが、のちに少女世界編集長の井口長次がやはり都合でもっぱら使うようになったという。
 多数のペンネームを使い分けて書いた作家として、林不忘、牧逸馬、谷譲次がある(同一人物)。

 著者の長い編集生活にせいで、この本には尾崎士郎や谷崎潤一郎やサトウハチローや火野葦平や獅子文六や宇野千代も出てくる。
 戦後に酒が不足して、酒を飲みたいあまり、宇野千代宅に留守中進入して林房雄と泥酔しているところを女流作家たちに見つけられた場面も告白している。その中に吉屋信子もいたという。
 当然、この本には江戸川乱歩も横溝正史も久生十蘭も夢野久作も入っている。